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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

道教における実践的修道とはどんなものでしょう。瞑想とか止観に相当するものと思われますが。

《以下引用(p217)》
では、実際の方法はというと、心でもって心を終わらせる、つまり有心から無心となることはできない。それでは心は堂々巡りをするばかりである。ここでは一つの方法として柳華陽の『金仙証論』に見られる呼吸(息)を取り上げてみよう。息とは自らの心と読める。そこで呼吸に働きかける、つまり神(こころ)を凝らして呼吸を調えるならば次第に心は静かになる。心が静まれば呼吸は深まり、それとともに炁(エネルギー)もまた充ちてくる。(煉精化炁)。呼吸は後天の炁とも言われ、神炁と密接に結びついているのだ。それ故古来、呼吸を媒介として神炁を錬る方法がとられてきたのである。
《引用終わり》

起信論では、呼吸にこだわるのは良くないと言われていましたが…。

《以下引用(p218)》
…呼吸が深まりに深まっていくと、やがて心は息み、「人心死して道心固まる」と、あなたは自分の周りに何も見ていないばかりか、あなた自身が消えてゆくように感じるだろう(煉炁化神)。この恍惚杳冥の間にただ虚無が果てしなく広がっている。あなたはそれに恐れをなすかも知れないが、それがあなたの本性であり、あなたはそのとば口(竅)へと入っていかねばならないのだ(煉神還虚)。このようにして神(こころ)の内奥に開かれた虚無の空間(虚無寂寥の境)を道教は谷神と呼ぶ。谷とは内なる虚空、神とは虚霊の神(真霊)を指している。谷神は仙仏の真種子たる先天虚無真一の炁(真炁)で、鴻濛未判の始炁とも呼ばれ、本来誰もが具えている至高の霊宝なのである。これを求めて根源を尋ねれば、それは一粒の黍米の如くであり、また延べれば全宇宙をも包む一黍の珠(一顆の珠)である。ここから聖人(仙仏:真身)が生まれてくるが故に、色身(幻身)を宿す子宮と区別して聖胎ともいわれ、儒においては太極、至善、釈においては円覚、法身などとも呼ばれている。

私たちは何よりもこの谷神へと辿り着かねばならない。しかも、自己懐妊のためにそうするのだ(聖胎者聖人之胎即吾生之原本也)。それでこそ私たちは自らに真の変容をもたらすことができる。これに比べれば、いわゆる自己変革など心変わりでしかない。
《引用終わり》

「それは一粒の黍米の如くであり、また延べれば全宇宙をも包む一黍の珠」とはホロニクスであり、華厳経ですね。

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