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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p215)》
さらに劉一明は、心を人心と道心の二つに分ける。それはロンチェンパが心(sems)と心の本性(sems-nyid)に、またアシュヴァゴーシャが心生滅(妄心)と心真如(真心)の二相に分けたのに比せられるが、一義的に心といえば人心を指している。心理学は人心を扱う学問であるが、心の健康と病など道心から見ればどれほどの違いがあるだろう(人心惟危 道心惟微)。心はよくも悪くもありとあらゆる幻想を造り出し、それが織りなす人生模様すべてが夢であることを悟らないが故に人は混乱した人生を送る。

一方、「道心は心に非ずの心」と言われ、先天的に永遠なる本性として、誰もが平等に持っている真心であり、これあればこそ仙仏とも成り得るのだ。道心は空々洞々、我もなく人もなく、本来無一物。もとより虚空の如くにて生死の影宿すことがない。しかるに、人に生死ある所以は後天の肉団心(人心)に依るのだ。この人心によって人間は有生有死、歴劫輪廻して息むことがない。
《引用終わり》

そして、「死」について。

《以下引用(p215)》
ところが劉一明は、われわれが永遠の道(成道)に至り得ないのは、われわれが死ぬことができないからだと言う。しかし、死といっても、肉体(色身)の死をいうのでは勿論ない。死とは人心の死であり、それにかわる道心が永遠であるという意味なのだ(…)。死の中に永遠の生を見る、同じ文脈にそった死の弁証法については、これまでにも私は言及したことがある(…)。
《引用終わり》

これは、以前の記事の「大死一番」の道教版と言えます。

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