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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p213)》
…この場合、無は形(色身)について言われている。形が無くなれば、そこが直ちに虚無であるとは限らない。たとえそうであっても修道を経ていないあなたが知る由もない。次に、もしあなたが本当に後天から先天虚無の一炁に帰ることができたなら、さらに生を受けることはなかったであろう。あなたは凡から聖ともなり得たはずだ。しかし、実際は後天の炁が織りなすエネルギーの余習(積習之炁 )故に、輪廻する凡夫に甘んじていることから推して知るべきである…。

成道はあなたの本性である虚無に帰ることであったが、ここにとても微妙な問題がある。というのはあなたとあなたの本性は並び立つことはできないということ、つまりあなたが無とならなければ虚無の真源へは辿り着けないという矛盾なのだ。道(タオ)とはあなたが成し遂げる何かではない。むしろあなたが道への障害になっているのだ。それは修道における錬己からもうかがえる。道を達成するのはそれほど難しいことではない、難しいのは錬己だと道家は言う。「私」故に生死(有生有死)を繰り返しているのだから当然と言えば当然であるが、錬己は「私」を鍛えることではない。それは言うならば人の道。錬己は逆にあなたが無(無己)となるプロセス、言い換えれば、如何にして「有私」から「無私」になるかということだ。この無私になることが修道において最も難しいことなのだ。

ところで、有私(有我)と無私(無我)の違いは何に依るかというと、あなたが心を有するか、そうでないかの違いなのだ。有心ならば有私、無心ならば無私。劉一明の存在範疇は基本的には二つに分類される。

〕心すなわち有私……有生有死……有漏身……順造化――凡人の道
¬疑瓦垢覆錣遡技筺帖通祇弧技燹帖通杵蛙函帖諜嫗げ宗宗柔臺の道
《引用終わり》

以前の記事、「無自己実現」に相当する内容かと思います。


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