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山形県公立高校入試問題・社会・平成25年度(H25.3.10実施分)
「3」の配点は17点。

問1(1).
2010年に平城京遷都1300年を記念する行事がいろいろと催されました。ただ、都であった期間は74年ほど。平安京に落ち着くまでに、いくつか都が造られたようです。

問1(2).
ア.冠位十二階と言えば聖徳太子(574-622)ですね。飛鳥時代ですから、明日香村の辺りが政治の中心だったのでしょうね。
イ.百済援軍、そして白村江の戦い(663)。同じく飛鳥時代ですね。
ウ.古事記は712年に献上されています。平城京遷都後なので奈良時代。
エ.大化の改新(645-646頃)で、やはり飛鳥時代。

問2(1).
平安京遷都は桓武天皇。明日香→平城京(奈良)と遷都は北上の傾向があります。桓武天皇は、さらに北上して長岡京に遷都しています。ここは桂川と宇治川の合流点付近で、大阪へと流れる淀川の起点ですから交通の便は良かったのでしょうが洪水が多かったらしく、その北東(大阪からは離れるが琵琶湖には近づく)の地に平安京を築きました。

問2(2).
写真は十円玉でおなじみの平等院鳳凰堂ですね。創建時(1052)の本堂は鳳凰堂の北方にあって大日如来を本尊としたそうですが、翌年に阿弥陀仏を本尊とした阿弥陀堂(元鳳凰堂)が建てられたとのこと。1052年が「末法」の元年と考えられていたそうです。浄土信仰は、阿弥陀を釈迦の次の救世主として拝むことなのでしょう。

問3(1).
将軍と東国武士の御恩と奉公の関係に関する問題です。武士の心というものが現代人には想像を絶するものであっただろうことは、『保元物語』(国語教材K-31〜K-40)を見れば分かります。

死んで手柄を立て子孫の名誉となることしか希望が無かった「武士」という階級が、現世での現実的な報酬を望み始めた様子、死を覚悟した先の要望の凄さ・迫力を感じとることができます。これほどのものがあればこそ、数百年続いた貴族中心の体制を変えることができたわけです。将軍は、それを成し遂げたリーダー。御恩は、現実的な報酬の分け前…教科書的には領地の支配権となってますね。

問3(2).
ア.御成敗式目の制定(1232)
イ.元のフビライが日本に遠征(1274・1281)
ウ.六波羅探題(1221年の承久の乱の後)
エ.後鳥羽上皇が倒幕の挙兵(1221)
ということで、エ→ウ→ア→イの順。

エ.承久の乱は、既得権益を失った朝廷側の反乱。3代将軍実朝が1219年に暗殺されているので、チャンスと思ったのでしょう。でも、北条政子は存命で名演説を行い、団結を守りました。北条政子(1157-1225)が生きているわけだから、そんなに後じゃないだろうという覚え方ができます。

ウ.乱の後の対策として、朝廷の監視機関を京都に置いたのが六波羅探題なので、当然乱より後。

ア.御成敗式目は武家の法律ということですから、1232年というのは遅すぎるような気もするのですが、揉め事が増えて止むに止まれず作ったということなのでしょう。武家諸法度制定(江戸時代)まで機能したというのですからスゴイですね。公平性を重視して作成されたのが良かったのでしょう。

イ.元寇は働いても「土地」という御恩が得られなかったため、鎌倉幕府弱体化の原因となったということで、後期の方だと覚えておいていいと思います。

ただ、倒幕のキーパーソンは、やはり後醍醐天皇で、弘安の役の7年後(1288)に生まれています。1331年に倒幕計画発覚のため挙兵、捕えられ流罪にされています。1333年に再度挙兵し、鎌倉幕府を倒しました。

問4(1).
参勤交代の原型は、秀吉のころに大阪城・聚楽第・伏見城で大名に屋敷を与え、妻子を住まわせて、大名を行き来させたことだそうです。家康時代は自主的に行われましたが、家光の時代に義務化されました。

歴史は好きなので、クドクド調べて書いてしまいました。でも、いろいろなこととくっつけて覚えていくと、覚える量はもちろん増えますが、面白くて忘れにくくなると私は思ってます。

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《山形県公立高校入試問題・平成25年度(H25.3.10実施分)インデックス》

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