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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p210)》
道教(仙道)における修道には命(炁)と性(神)を修する有為の道(修命)と無為の道(修性)がある。そして、修命(身)を伴わない悟りは究極の悟道にはなり得ないと言う。たとえ何らかの方法で性、つまり心の空性を悟ったように見えても、不死の命(金剛不死人)に復さない限り、成道には闕ける。それは炁に漏失があるために生死を離れられないからだ(…)。そこで劉一明は無漏の金剛身(真身)となるために有為の道から始めるよう勧める。これは修性(心)に傾きがちな宗教に対する彼の批判ともとれるが、それなら有為の道だけでよいのかというとそうではない。命(炁)を錬るばかりでは(簡単に言えば身体を鍛えるだけでは)成道はおぼつかない。性(神)、つまり心の本性を悟る無為の道がそれに続くのでなければならない。劉一明が成道の学を性命双修した所以である。
《引用終わり》

釈尊も、禅定で挫折し苦行で挫折し、後に悟りに至っています。全くのイコールではないでしょうが、禅定は修性、苦行は修命に近いと思われます。

修命(身)を伴わない修道とは、越三昧耶にも似てますね。

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