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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p207)》
「長生不死の神方」とは親鸞の言葉であるが、その長生不死を求めたのが道教(仙道)の思想家たちであった。いつの時代でも人間は死を恐れ、死によってすべてが失われるがゆえに、永遠の生を求めずにはおれなかったのであろうが、道(タオ)が永遠であるとは、それが生まれることもなければ滅びることもない(不生不滅)という意味において言われる。肉体(色身)がそれにあてはまらないことは明らかであるが、それでも長生不死などと聞くと、どこかで「私」は死ぬことはないのだろうと考えてしまうが(ある意味でそれは正しい)、今ある「私」が不死になると言っているのではない。むしろ「私」ゆえに生滅(生死)を繰り返しているのであり、いつか死ぬであろうと不安に駆られるのも、この「私」から来ているのだ。そこで生死脱離ということが言われることになるが、だからといって生死(肉体)を離れたところに永遠(道)を求めるということではない。生死の問題を解決せずして、生死の外に永遠の生があるというように考えてはならないのだ。
《引用終わり》

空海は「三教指帰」で、道教(当時の日本に広まっている道教ということになると思うが)を、今で言う「極端なダイエットを薦める健康セミナー」のように批判しています。しかし、「道」を上記のように捉えれば、これまで読んできた神秘主義と同じであり、仏教とも同じであると言えそうです

《以下引用(p207)》
人は道の真っ只中にいながら、それに気づいていない。ちょうど水中の魚が水の存在を忘れているようなものだ」と劉一明は言う。道とは、魚にとって水がそうであるように、われわれの生命そのものなのだ。道なくして一瞬たりとも存在できないにもかかわらず、われわれがそれを知らないでいるのは何故であろうか。基本的には先天(真)から後天(仮)へと退転したわれわれが真仮を弁えず、あらゆるものの本源である道を仮象の現実(仮境)でもって覆い隠す。荘子の言葉を借りるなら、現実がより大きな夢(大夢)であることを知らず、夢を貪るあまり、その根底にある道を忘れているのだ。
《引用終わり》

「瞑想の心理学」にも出てきた「夢の比喩」です。「道」というのは、これまで見てきた神とか仏とかに近い概念のようです。

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