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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

トマスの福音書」を読んだ時、仏教もキリスト教も究極は同じだという印象を持ちましたが、道教についても同じことが言えそうです。違いは術語。

《以下引用(p199)》
男女陰陽ニ炁が聚まれば形をなし、散ずればたちまち形は消える。形は炁の離合集散であり、有形有炁のものは成敗生死を免れない。劉一明が形と言えば、一義的には肉体(色身)を指しているが、私たちは形に捕われ、自分自身を肉体と同一視する。この観念が道を誤らせ、あなたをしていつまでも肉体に繋ぎとめる(流浪生死常没苦海永失真道)。その結果、あなたは形あるが故の煩いと果敢なさを繰り返し嘆くことになる。「吾が大患あるゆえんは、吾が身あるがためなり。吾が身なきに及んでは、吾何の患かあらん」。劉一明は老祖を例にとりながら、地上における人間の煩いはすべて肉体(色身)あるがためだという。もし肉体などというものが何の煩いもなかったであろう。しかし、私たちは彼の言葉を短絡的に理解してはならない。なぜなら肉体の内側にあらゆる煩いからかけ離れた誰かがいる。それを彼は真我とも、本来人とも呼ぶ。そればかりではない、道家(タオイスト)の究極の目標である道(タオ)もまた肉体を離れてはないのだ。

道在身、身中又蔵一個人。寤寐行為常作伴。

このようにあなたの内側にもうひとりのあなたがいる。それはあなたが目覚めていようが、眠っていようが常にあなたに寄りそい、喜びのときであれ、悲しみのときであれ、あなたを見つめている目である。だからといってそれは卑小なあなたの殻に閉じ込められるようなものではない。それは宇宙創造の根源にある普遍的な力であり、星辰はこの力に動かされて巡る。何よりもあなたはこの真形(主人公)をしっかりと見とどけなければならないと劉一明は言う。
《引用終わり》

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