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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

公文氏は意表をつくスローガン(?)を唱えたことが何度かありますが、「の前のE五冊」もそのひとつです。

《以下引用(p332)》
E教材に進む生徒は、当然ながら生徒みずからの、全身的な力をつかって教材に取り組めるようでなければならない。そうでないなら、教材学習はムダになる。公文氏はムダなことがきらいである。ムダであるばかりか、ほうっておけば学習自体まで不調になる。だったら、そのE教材で採択されている文章レベルの本を、E教材を学習するまえに読ませるようにすべきではないか。人には唐突でも、かれにとって当然すぎる提案であった。できないなら、どうするか。苦しんでいるなら、そのまえに何をさせればいいのか。これを考えるのが公文氏の指導、いや、教材の制作方針そのものであった(しばしば教材がむずかしければ、そのむずかしいところを削る教材改訂があったりするが、公文氏はそのまえにある教材の質を高めた。やさしくする教材改訂は一度もなかった)。この「Eの前のE五冊」は教室での国語指導に直結する問題である。…
《引用終り》

教材の一段一段のステップを小さくして、登りやすい階段にすることは可能です。しかし、それでは自分の力を鍛える階段では無くなっていきます。そして、教材の量はゾッとするくらい水増しされるはず。やさしくする教材改訂を望まなかった公文氏の考えはよく分かる気がします。

《以下引用(p334)》
まえに斉田先生の国語指導は文章の読み方指導を中心にしていると述べた。文章を読むとは、文章の内容を自分の経験世界に移しこんで腑に落とす、ということである。自分の経験に落としこまなければ、文章はほんとうに読んだことにならないのだ。しかも、この経験は当然ながら生徒一人ひとりでちがう。目のまえにある文章を読むための基本的な国語力もまた、生徒ひとりひとりでちがうのである。こうした状況のなかで、文章を読んで腑に落とす状態をつくるのが、国語教育の中心になる。もちろん、対応は個人別でなければならない。納得という気持ちになる場所が生徒ごとにちがうのである。了解の域そのものが異なっている。…

熊本に吉山先生という先生がいる。「G・H・I教材のなかの、どこかで、一回は生徒とその解釈の仕方について話しこむことがある」、こう言ったことがあった。これが国語力をモノにした生徒の特長であった、と。…

生徒自身が自分の経験として腑に落とさなければ納得はしないわけで、文章の読みも完結しない。「教えすぎよ」、「そんな暇ないわよ」という声が聞こえる。たしかに長口舌は禁物であるし、教室を混乱させるのもよくない。しかし、このぐらいの時間はつくるべきなのだ。何回もあるわけではない。そのあとの生徒の取り組みが変わる可能性があるのなら、時間がかかっても、教室の流れが多少わるくなっても、たいした問題ではない。できるだけ簡略に指導するのは、もちろんである。
《引用終り》

このような遣り取りを、私は「香炉峰の雪」と呼んでいます。ひとつの名作を間において、これから人生という険しい山を登ろうとする若者と、これまでの自分の経験を手掛かりにして対峙する…これは、「師」としては至高の瞬間ではないかと思います。「教えすぎよ」、「そんな暇ないわよ」とは、時計ばかり気にしてメインディッシュに手をつけずに帰るようなものではないかと。

《インデックス》

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