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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「瞑想のバルド」について。瞑想、大乗起信論で言うところの「止観」が目指す境地だと思います。

《以下引用(p192)》
無意識、集合的無意識、宇宙的無意識と辿る無意識の現象学を『死者の書』はb堊曚離丱襯匹噺討屐死者が辿るバルドについても言えることであるが、それを一様に解説することはもちろん不可能である。各人を形成している個人的、集合的な背景(カルマ)の違いによって現れもまちまちであるからだ。…ただ自分自身を観察し、自分の心を見つめるだけでいいのだ。…無意識に意識の光をあて、自覚にまで昇ってくると無意識は自然に消えるからだ。それは丁度、夢を自覚すれば夢が消えるようなものだ。

しかし何もしないで自分自身を観察するのは簡単なようで実際はそうではない。なぜなら自我は絶えず何かをしたがるからだ(何もしなければ眠ってしまう)。そしてたとえ行為は伴わなくとも、内側で思考(感情)は動き続けるだろう。それをいいとか悪いとか一切判断を加えずに見るのだ。そうすると思考はしだいに消える。

さらに記憶はどうであろうか。心はあなたのすべての過去、即ち今生に限らず過去生における喜びと悲しみの経験をひとつ残らず記録している。その記憶が呼び覚されることがあるかも知れない。…記憶は忘れられることはあっても失われてしまうことはないからだ。そしてそれに伴う心理的、肉体的な傷があなたを苦しめ、また性的な幻想に悩まされようとも、一切かかわらず見ていればそれもまた消える。たとえ過去生を知ったとしてもそれでどうということはない。事情は同じなのだ。この無意識を越えると事はさらに複雑になってゆく。
《引用終わり》

つまり、無意識から集合的無意識へと…

《以下引用(p193)》
実際刃向かう敵がいるはずもないのに自分を取り巻くあらゆるものが敵愾心をあらわにし襲いかかろうとする。苦痛が責めさいなむ恐怖はいつ果てるともなく続くように思われる。しかしこれは怒り、冷酷、憎悪、嫉妬……など歪んだ感情を取り込んだあなたの心が投影した幻覚なのだ。従ってそれと戦ったり逃げだそうとしても何の解決策にもならない。むしろそれが自分自身の内側から生まれてくる幻覚であると知れば、それはおのずと消える。と、あなたはほのかな光に包まれ、見るもの聞くものすべてが調和し、この上もない美に魅せられる。聖なる恍惚があなたを充たし、愛は限りないように思える。あなたは神を知ったと思うかも知れないが、それもまたあなたの心が投影したものなのだ。…だからといって何のリアリティもないというのではない。それどころかそれを見ている者にはまさにそれが現実なのだ。

そこで見るものは文化、習俗(あえて宗教とは言わない)の違いからまちまちで、『死者の書』が描くような怒りと柔和の神々が現れてくるというのでもない。しかし集合的無意識の領域にはある共通する類型的なイメージや象徴を見てとることはできる。一例として挙げれば、キリスト教世界では神はイエスとして現れてくるかも知れない。しかし神を見るということが実際はあなた自身が投影した幻影を見ていることがある、この点に注意しなければならないのだ。この事実が時に神の裁きなどと結びつくと、人を脅したり、希望を約束したりと宗教は最も質(たち)の悪い独善となる。いずれにせよさらに超越が必要なのだ。
《引用終わり》

さらに集合的無意識から宇宙的無意識へと…

《以下引用(p194)》
あれやこれやの悲しみではない。人類の全歴史を通して流された悲しみの涙でもない。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」というとき、それは集合的無意識から得た感慨である。それらを含む全宇宙が救いようもなく失われているという根源的な悲しみ。人間の感情や同情など一切入る余地のない絶望的な嘆き。それにもかかわらず決して終ることのない宇宙的遊戯(リーラ)の不可解。果たしてこれ程までの孤愁を身を持して堪えている人がいるかどうか私は知らないが、それさえも消え、すべての感情や思考が収まると、あなたは微動だにしない広漠たる空間にひとり佇む。そしてあなたの意識は何もない虚空に溶け合い、すべての束縛から解き放たれたような自由がそこにはある。しかし、それとともに自我の輪郭は曖昧になり、あなたは無の深淵に臨んで、恐怖の余り、もと来た現実へと引き返そうとするだろうが、それはサンサーラの世界へ舞い戻ることを意味している。そして、今体験した自由と宇宙との合一を空性の体験と称して、原初あるいは心の本性に到達したと考えるかも知れないが、そうではない。誤解があっては困るが、心の本源に到達したまでのこと。心の本源(kun-gzhi)は生死が兆す根本であり、万物が生々流転する宇宙的無意識の深淵なのである。
《引用終わり》

そしてニルヴァーナへと…

《以下引用(p195)》
ゾクチェンは心の本源をも越え、空性のダルマ・カーヤを自己の本性と見てとれない限り(不覚)、あなたにとってそのダルマ・カーヤが幸・不幸、愛憎、生死、輪廻と涅槃……など、あらゆる二元性を生み出す宇宙的無意識(kun-gzhi)になるという。従ってそこから退いてはならないのだ。あなたは宇宙的無意識の中へと消え去らねばならない。そこにとどまって自らの死と対峙すべきときなのだ。これが死の練習の意味である。無の中に自らを解き放つことは間違いなくあなたの死となるからだ。もちろんあなたはこのカタストロフィーに怖れ戦くだろうが、それに身も心も委ねることができたら、やがて闇から光へ、あなたは宇宙意識へと目覚めるだろう。この覚醒(ye-shes)が仏性(神性)の目覚めであり、ニルヴァーナなのだ。しかし事実は、あなたが消え去れば心の本源でもある宇宙的無意識も消えるから(無心)、そこにはもはや輪廻とか涅槃という概念すらない。無明(ma-rig-pa)はここに尽き、明知(rig-pa)が輝くだろう。これをエンライトメント(光明)の体験と呼ぶ。あなたはひとりの覚者、ダルマ・カーヤ(真理の身体)へと辿り着いたのだ。
《引用終わり》

生物学的に死んではいませんから、即身成仏ですね。

《以下引用(p196)》
…宗教的真理(悟り:エンライトメント)の体験はある意味では体験ではない。そこに体験するあなたはいないからだ。たとえ神秘的なビジョンを見たとしても、それが神であっても、また宇宙との一体感を味わったとしても、そこにあなたがいる限り、それは宗教的真理の体験とは言わないのだ。それに対してあなたが消え去るとき宇宙も真にあるがままの姿を現す。あなたが悟ればあなたは宇宙の本質をも悟るということだ。その意味は、あなたが仏性に目覚めるときあなたを取り巻くすべてのものがすでに仏性を得ている。換言すれば、あなたを含むすべてのものが仏(神)であると知るのだ。ひとり仏(神)だけが存在している。あなたなど一度として存在したためしはない。すべては終りなき絶対者の遊戯(リーラ)なのだ。
《引用終わり》

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