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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p326)》
文章を読むことも、文章を書くことも、ともに生徒個人がもつ経験世界に裏打ちされてはじめて成立する学習である。生徒はみずからの経験をいつも頭に思い描きながら、文章を読んだり書いたりしていく。当たり前のことだが、こうした高次の精神機能を活発化する学習法を単刀直入に、そしてシンプルに子どもたちのまえにさし出さなければならない。…

文章とは読み手にとっては、いつでも「考える場」なのだ。これを国語学習において生かす「方法」を考えていくと、文章の読み自体をそのまま読み手の経験世界にうつしかえることをねらう「縮約文」の学習は、国語の文章読解の世界に新しい光をもたらすものではないか、と希望がわく。この方法は、文章からはなれることなく、文章自体がもつ可能性にそのまま直結する学習法だからだ。
《引用終り》

「縮約」という方法に到達した思想の経緯のアウトラインが分かる気がします。

《以下引用(p327)》
認識主体そのものの確立をめざす縮約は、国語教育が担わなければならない批評性の獲得にも少なからず貢献する。なぜならば、批評とは、かかえている問題に対して、あくまで自分自身の感覚と認識をたよりにして、つまり、自分自身の経験を基にして、自分の考えを述べていくものに他ならないからである。…

自分のいまの感覚、いまいる存在感覚の方を第一にするのである。そこから国語の学習は始まるのだと、まず覚悟を決めるべきなのだ。そう、これは、意志の問題なのだ。そうすれば、かならずや、国語の学習が生徒自身の行く末の道筋までをも明らかにするサーチライトの役を果たすはずである。心してほしい!自分のいまの〈場〉にとどまるように。そこでの余裕のある学習こそが未知を切り拓き、学習者自身の可能性を生み出す泉になる。
《引用終り》

この章のタイトルが「教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」であることを考えると、この文章が一番筆者が伝えたいメッセージなのかもしれません。しかしながら…

《以下引用(p328)》
もちろんだが、読み手の数だけ読み方がある、ということにはならない。文章の価値は文章が決めるのである。文章に作者はいる。しかし、文章から放たれる意味の光は、この作者からのものではない。文章の奥、「作者A」の背後にある光源からの光なのだ。この光源に照らせば、読み手本位のかってな解釈はゆるされない。

読み手はつねに光源に照らされた文章中の言葉を追いながら、この光源をさがし求めつつ、さまざまな思いや考えをめぐらす。そして、この言葉はこうであって、ああであってはならない、絶対という確信が生じる光源のちかくにたどりついたとき、読み手自身の体もまた、この光源の光に照らされて光りかがやくことになる。文章を読むということに、読みにまつわる「倫理性」が出るのは、こうしたときなのだ。かってな読みをして、この文章を通りすぎようとしても、その後ろめたさは残る。どう読んでもいいわけではないのである。
《引用終り》

「読み手」と「文章」と「作者」と「光源」の位置関係、読書の作法など、とっても興味深いです。これまでの私の読書は何と漫然としたものであったかと思わずにはいられません。

《以下引用(p328)》
思考と思考との交流の場であるはずの文章の世界から、すでにとおく離れてしまっている生徒たちを、ふたたび文章に出会わせなければならない。国語指導でもっとも大切なことは、その文章の趣旨や主題、また、要旨を生徒につかませることなどのスキルに終始する国語力なのではない。そうではなく、むしろ国語教育の課題は、いかに生徒に文章がさし示す光源ちかくに長くつきあわせることができるかどうかなのだ。この点においてこそ、国語にかんして、指導力のあるなしが問われなければならない。しかし、縮約文をつくるという教材があれば、自学自習は可能である。しかも、個人別指導もできる。生徒たちを文章のまえにたたずませて、そこで生徒自身が考える場と時間を提供する、指導者はこのことを念頭において自分の国語指導法を確立していくべきなのだ。生徒と正面に向き合った指導のさいにも、この点へのつねなる留意が必要になる。
《引用終り》

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