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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「国語教材から考える:教育は生徒のいま、ここでの経験に立脚する」(p308〜341)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p320)》
…まずイメージがあり、このイメージのもとに書き言葉で表現された文章が、そこにある。読み手はこの文章を読み、そのなかの言葉や文、一つ一つに触発されながら、その奥にひそむイメージにまでたどりつく。読むという行為にとって、言葉はたんなる道具に終わらない。読み手は書き手が仕上げた文章にちりばめられたさまざまな概念を追いかけ、みずからの経験との対話をくり返しつつ、みずからの〈本文〉をつくりだしている。
《引用終り》

読んでいるうちに、私たちの頭の中ではいろいろな現象が起きています。脳の思考活動が化学物質の交換であるならば、いろんな化学反応がいたるところで…。

《以下引用(p321)》
都留文科大の田中実氏はこう述べている。

〈本文〉が〈わたしのなかの現象であれば、その現象が起こる前の文学作品はまだ〈本文〉という具体的なコンテクストを形成していない。この未生のコンテクストをプレ〈本文〉(原〈本文〉)と呼んでおくとする。とすると、このプレ〈本文〉がそのまま読み手に現象するのではなく、このプレ〈本文〉を読み手が読むという関係になって、読み手のなかに現象したのが〈本文〉である。これが〈読み手のなかの出来事〉である。((『読みのアナーキーを超えて』1997)

つまり、国語の読解指導を田中氏が述べるプレ〈本文〉を前提にした読み手の〈本文〉づくりの継続的な接近作業としてとらえれば、読み手はけっして自分の恣意的な読みの段階にとどまることは許されない。時間をおいてもいいが、再読、三読することによって、みずからの読みにとりついたこだわりを一つ一つはがしていく作業そのものが、読むという行為になる。
《引用終り》

時として読書は、自分の頭の中を再構成せざるを得ないような衝撃を与えます。そしてそれが学ぶということでもあります。

《以下引用(p323)》
…読み手はみずからの〈本文〉とプレ〈本文〉とのあいだで尽きることのない一種の対話をくりひろげるわけである。プレ〈本文〉を「作者A」とおき、この「作者A」との人格的な関係性をむすんでいると言ってもいい。この「作者A」との格闘、共闘こそが読書行為の姿であり、読み手はこうした読みを通して、みずからの内言の生長をはかるのである。
《引用終り》

内言という言葉の重〜い意味は、前回参照。

《インデックス》

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