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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「英語教材から考える:基礎基本とは何か」(p273〜307)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p290)》
かつて、公文氏はみずからの英語教育の特長を「学校の英語教育の欠陥をさらに助長するものである」と、例の逆説をもちいて宣言したことがある。こう宣言した時代はもうすでに30年以上まえのことである。当時の訳読式、学校英語の欠陥がさわがしく議論されていた当時のことだった。…

(公文の英語を、そういった学校の英語教育の)欠陥を助長する英語教育にする、と言ったのだ。真意はこうだ。時代はますます、生徒にいろいろなものが必要になった、学習法を変える必要がある、と要求してくるにちがいない。しかし、なにもかにもは、できないのだ。強迫心に追われるな、自分を見失うな。自分で高めなければならないものだけ、唯一、その領域だけの学習に徹すべきだ。訳読式は役立たずの旧い教育法だといって、英語教育のプロ、また、英語がなんらかの事情で堪能になった人は批判するだろう。かまうことはない。訳読式がもつ学校英語の欠陥をさらに助長するぐらいにすべきである。英語が読んで解かる、これがなくて、なにが英会話か、どうして一挙にディベートなのか。読解力なくしては何も始まらないではないか。…世間の親は「計算はできるが、応用問題ができない」といった。しかし、そうではない。その計算力が不十分だから、数学ができないのだった。英語でも事情は同じなのだ。「英語の文章は読める」が話せない、聞けない、という。しかし、そうではない。読めていないのだ。英語の読解力が足りないから、そのほかの活動ができなくなっているのである。
《引用終り》

ちょうど盛んに議論されていた頃、私は中学生だったのかもしれません。そういう意見を聞いてなるほどと思う反面、発音だけ会話だけに重きをおいた授業なんて軽薄過ぎて時間が勿体ないと思ったような記憶があります。

前出のヴィゴツキーは、外国語教育についてどんなことを言っているでしょうか?

《引用(p289)》
子どもは、母国語においてすでに意味の体系をマスターしており、それを他の言語に転移しながら、外国語を習得する。が、また逆に、外国語の習得は、母語の高次のマスターのための道を踏みならす。(『思考と言語』1934)

こうした考えに出会うと、昨今の英語教育の偏りにはいま以上の注意をすべきなのかもしれない。小学校の英語教育など、まさに第二の母国語を子どもに獲得させようとしているかのようなのだ。しかし、ヴィゴツキーが指摘するまでもなく、母国語の無自覚的習得のような形式の学習で、期待されているような英語力がつくと考えるのは楽観にすぎるだろう。

すなわち、(ヴィゴツキーの考え方は、)すでに意味の体系をマスターしている母国語を活用して外国語の導入とし、ひるがえって、高次の複雑な言語特性を外国語学習で得ることによって、母国語自体の高次の発達を準備すべきだと提言しているのだ。
《引用終わり》

両親の母国語がそれぞれ違うような家庭に生まれたのならともかく、そうでない場合には、両親の母国語、あるいは自分の住環境を取り巻いている言語を第一の母国語として優先的に習得するのが近道のような気がします。

《引用(p293)》
英語が充満した環境にない日本の学習者が、それでもなお英語をマスターしていくためには、英語がどのように運用されているかを学ぶしかない。…運用知とはその英語がどのような意味をもって人とのコミュニケーションを成り立たせているのか、その「きまり」を学んで身につけるものである。…

(p294)つまり、英語がどのように運用されているのかを学ぶためには、その英語がどのような意味体系のなかにあるかを知ることなのだ。このとき大きな働きをするのが、母国語訳から学ぶやり方であり、その目的をわきまえていれば、このやり方を罪悪視する必要はないのである。むしろすぐれた母国語力をもつ生徒のほうが、英語自体も学びやすい。生徒によっては、母国語から英語のニュアンスやその表現性についてまで学び取ることができるからである。ヒアリングやスピーキングといったスキルに特化するのは、かえって遠回りになる。
《引用終わり》

今は、字幕入りの洋画(子ども向けも)などを簡単に視聴できるわけですから、ヒアリングやスピーキングはそんな形で娯楽の一環としてやった方がいいのではないかと私は思います。

《引用(p294)》
しばしば議論される英語の学習始期に関する問題についてはどうか。母国語力が身についてから、というのが正しい判断の仕方であるが、この母国語力ほど個人差が出るものはないのである。ふつうでさえ、三学年分ぐらいの差がある。小六の生徒なら、中三以上の国語力をもつ生徒はめずらしくない。おなじように小六であっても小三レベル以下の国語力であることも、よくあることである。だから、しっかりとした母国語力さえないのに英語とは、という意見は正しいとしても、だから英語は中一からということにはならない。小四であっても中一相当の国語力をもつ子がふつうにいるのである。もちろん、小四のなかには、国語力は小学生以下である子もいる。外国語の学習始期にかんしては、その土台となる母国語力が個人ごとに大きな差をもつ事実を忘れるべきではないのである(外国語教育においても、ますます個人別教育の時代になっている!)。
《引用終わり》

括弧書きのところが、一番言いたいことかもしれません。

英語教育に関する細かい分析は、本書にたっぷり述べられていますので、是非そちらもご覧下さい。

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