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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第八章 シャンカラ」(p153〜174)を読みました。

これまでにも何度となく悟りへの過程を描いた文章を見てきましたが、今回はアートマンとブラフマンが出てきます。

《以下引用(p169)》
さて、覚醒のプロセスの中で確かにあなたは自分自身を失うことになるが、それは偽りの「私」であって、真我まで失うのではない。偽りとは、「私」はどんな夢(マーヤ)でも見るということだ。そして生死もまたあなたが見る夢の一つに過ぎない。…

因に、見ていたのは生死の夢だけだろうか。あなたは人間という夢をも見ているのではないだろうか。私は人間であるという夢。だが、人間であるあなたが、人間の夢を見るとは考えられない。ではあなたの夢を見ているのは一体誰であろうか。端なくもこんな疑問が脳裏をかすめるが、結論からいうと、究極の実在であるブラフマン(Brahman)があなたの夢を見ている。というよりは、あなたは夢を見ているブラフマンであるということだ。無限の多様性を見せる夢は、ことごとくブラフマンの宇宙的戯れ(コスミックリーラ)であり、人間もその一つなのだ。「私はあらゆるものを現象せしめているそれなのだ」。
《引用終わり》

これが無我の体験…。

《以下引用(p171)》
無我の体験なくして真の自己認識(Atmabodha)はない。アートマン=ブラフマンとなって初めて、あなたは自分がこれまで「私」と呼びならわしてきたものが何の実体もない、単なる言葉の綾であり、思考や感情が造り上げた虚構であったと知るのだ。…ともあれ、無我の体験は、一方では自己喪失の体験であり、あなたがアートマン=ブラフマンに至るために通過しなければならない試練なのだ。その意味は、広漠たる空(無)の中へと自分自身を解き放つことを許さないあなたがいる。生か死か、最後の命運をかけた自我のあがきがそこにある。…

無明長夜の夢を見続けるか、それを終わらせるかはあなた次第である。
《引用終わり》

「梵」=マクロコスモス、「我」=ミクロコスモスという表現もありました。前者(ブラフマン)と後者(アートマン)が一つとなる「梵我一如」の境地を目指し、仏教以前からインドでは修行が行われていました

高崎直道氏の文章がうまくまとまっておりますので、再度引用したいと思います。
《「仏教入門」より引用》
仏教の特質をひとことでいえば、真理と一つになる、絶対との合一ということを目標とする点にあると言えよう。…絶対者との合一を目標とする思想はひろく神秘主義(mysticism)とよばれる。神秘主義はキリスト教やイスラム教の一部にもあるが、主流とはいえない。それに対しインドではヒンドゥー教も「梵我一如」の教えに見られるように絶対者との合一を説く。仏教はむしろ、このインド的伝統に根ざすものと言うべきだろう。なお、わが国の宗教的伝統も神人合一というか、神人未分というべき思想が強い。宗教学の姉崎正治はこの伝統を「神人合一教」と名づけ、キリスト教などの「神人隔絶教」から区別した。
《引用終わり》

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