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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自学自習と教材の力」(p229〜389)の「自学自習についての見方の違い」(p230〜241)を読みました。(小林教室収蔵

そもそも、教育は何を目指すべきなのでしょうか?

《以下引用(p233)》
人は社会に出て、職業をもって、日々の仕事をこつこつとこなして生活を立てていく。…なにごともなくつづいていた日常に、問題が非日常の世界をかいま見せる。これまでの経験のなかだけではなかなか解決ができない問題である。望まない岐路に不意に立たされて、八方ふさがりの状態にひとり追い込まれる。

問題の所在をあるがままに見つめ直すしかない。この問題に自分はどう向きあえばいいのか。しばし黙考する。熟考して、こうするしかない、こうすべきである。いや、自分にはこれしか策がない。それがいかにちっぽけで情けない解決策であれ、いまの自分にはこの策しか、この問題に対応する手がない。これしかない手を打って出る。

手を打てば、状況に変化があらわれる。想定内のこともあれば、想定外のこともある。しかし、自分が動いた結果の変化である。この変化はそのまま受け入れるしかない。そうして、みずからの責任を背負ったまま、これから先のことを思う。みずからの行動にぼんやりとではあれ、一条の道筋が見えてくるのを待つ。そして、ふたたび立ち上がる。ここにこそ自学自習精神の本質的な意味がある。
《引用終り》

壁にぶち当たっても負けずに挑み続ける、この精神を養うことが最も大切なのではないか?

決められたカリキュラムに従って、個別の能力差や興味関心に関係なく、クラスの皆が同じ勉強をする…そんなやり方で不屈の精神が養われるとはとても思えない。

《引用(p235)》
「学年を越える」という学習が活路を拓くのではないか。
《引用終わり》

自分の未知の領域に挑戦し、それを乗り越える経験を積むこと。「未知の領域」とは、学生ならば「学年を越える」学習と言い換えていいでしょう。皆より先んずることが目的なのではないということが重要です。

それには、生徒にとっても指導者にとっても冒険となる自学自習が必要となります。

ゆえに、公文は、算数を、英語を、国語を教えるのではない。算数で、英語で、国語で、自学自習を教えるのである。という言い方をします。

とかく(不屈の精神など養われそうもない)授業を大人しく受け続けていると、良い生徒だと言われがちです。それはおかしいのではないか?

《引用(p238)》
もくもくと学習することに価値がないのではない。もとより、本来の学習に入る前提として、もくもくと学習して得る基礎学力が必要でないというのでもない。しかし、こうした学習姿勢の問題と自学自習そのものを学ぶ学習とはほとんど別物なのだ。むしろ、自学自習はまじめさや従順さといった態度の問題をはるかに超えて、その学習姿勢はあらあらしく、自分勝手であり、教える側を吹き飛ばすほどの熱を帯びるものである。

学習しつつある生徒に不意に跳躍のときが訪れる。だから、この訪れの機会に対して、指導者はいつも心に準備しておく必要がある。いつこうなるかは、わからない。基礎学力があれば、起きるというものでもない。生徒が頼るものもなく、自分だけの経験と学力と気持ちをもって、その問題にぶつかっていく姿勢があったとき、はじめてこの予期せぬときが、降って湧くがごとくに訪れる。これを指導の仕組みのなかに入れなければならないのだ。ここでこそ生徒の自学自習力が本来の姿を現すのである。学習のさなかに生徒たちは不意に大空に飛び立っていく。いつ飛び立つか、それはわからない。ということは、いつ飛び立っても不思議ではない、ということでもある。この巣立ちは一回起こればおしまいというものではない。これからさき、その自学自習の力はますます研ぎ澄まされ、あらゆる機会をとおして発揮していくことになる。
《引用終わり》

指導者は、この飛翔を邪魔してはいけないのだ。この飛翔がより大きいものになるように、そして何度も訪れるように取り組んでいかなければならない。

先日の「もう一つの見通し」がこれだったわけです。

《インデックス》

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