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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第七章 ジャラールッディーン・ルーミー」(p131〜151)を読みました。

ルーミー(1207〜1273)は、「スーフィズムの偉大なシェイフ」と本文中で紹介されています。「夢、その一」(p133〜141)のデカルトの「cogito, ergo sum」に関する記述が面白いので、今回はそこを引用します。

《以下引用(p134)》
いずれにせよ、この命題は「私」の存在証明になっていない。せいぜい思考のプロセスが「私」だといっているに過ぎない。cogito, ergo sumに対する私の誤読(と言っておくが)、即ち、思考が「私」であるということは、われわれの世界については絶対的に妥当する。なぜなら、この世は「私」という思考が造り出すものしか見い出し得ない世界であるからだ(思考を越えた世界については後述)。心に浮かぶ思考のゆらめきは、具体的な像(イメージ)となって、やがては物質(広い意味では人間の行為)へと客体化されてゆく。われわれが目にしているものは、もとを辿れば思考以外の何ものでもない。思考は物質であり、物質は思考が付与した形(フォルム)なのだ。思考は、われわれが一般に考えているような抽象的な観念にとどまるものではなく、様々な想像の世界('alam al-mithal)や物質の世界('alam al-ajsam)を造り出している根本原因なのだ。
《以下終わり》

デカルトについては、私も自分なりに書いています(水準はかなり低いですが)

科学の分野から見ても、「私」というものの輪郭をぼやかすことは簡単であり、むしろ自然な結論でさえあります。逆に、「私」から離れ客観視を至上命題としているはずの科学も「私」の影響下から逃れることはできない、というのも事実です。

その点、仏教は…「仏教が世界を考える場合、経験するわれわれ主体の側も含めて理解していく。言い換えれば、世界はそれだけで存在しているのではなく、外的に存在すると見られる客観世界も、見る主体の心と密接に結びついているということで「三界唯心」と熟語されるところに大きな特徴がある。」ということでした。

それは、唯心論か唯物論か、という区別ともまた異なるものです。

可藤さんの本を読んでいると、究極の真理は、仏教もキリスト教もイスラム教も同じだということに気づかされます。そして、デカルトの思索がいかに表層的であるかも。

《以下引用(p135)》
さて、ひとたび「私(エゴ)」という中心が措定されると、「私」を除くすべてのものは外側へと客体化され、そこであらためて、あなたはそれらの事物(人、物、思想)と関わり、支配しようと奔走する。生とはそのための闘争であり、葛藤なのだ。というのも、今のところ「私」は無防備な裸の状態にあり、知識、権力、物、名誉なんであれ、色づけされるのでなければ、見わけもつかない抽象物であるからだ。

このような主客分裂したところから、あなたは様々な問題を造り出す。
《以下終わり》

これは、すっかり仏教書のような記述ですが…今回はイスラム神秘主義なのです。

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