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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

このイブン・アラビーの章は、「死」(p112〜120)と「無」(p120〜129)という2つのテーマで区切られています。今回は「無」について。

「世界は幻想である」…みんなで造り上げている共同幻想。そしてその幻想を蓄積する貯蔵庫こそ「私」。

この幻想たる「世界」を、つまりは「私」を取り去ったとき、汚れを落とした鏡のように真実を映し始める。これは比喩こそ違うけれども、大乗起信論と同じことを言っているように感じます。

《以下引用(p124)》
神を映す鏡が、あなたの経験(感情、思考)が織りなす幾重ものヴェールに覆われて、見えなくされているのだ。あなたがそこに介在するとき、神は背後に隠れてしまう。「そこにあなたがある限り、神に至る道はない」とビスターミーも言う。しかし、これは神の顕現する場(トポス)まで失われたことではない。人間の創造の目的である鏡を手放すことは誰にもできない。自分の影に文字通り我を忘れて、あなたは自らの本性に気づいていないだけ。
《引用終り》

《以下引用(p125)》
無があなたの本性なら、どうあれ、あなたは無からやって来たのであり、そして再び無へと帰っていくしかないのである。…

人間はどこから来てどこに向かって去りゆくのであろうか。古来、この問いは永遠の謎として、われわれの脳裏に去来しては、確かな答えを得られないままにきた。何故であろうか。切実で、的を射た問題と思われているが、問いそのものが持つ誤った観念を一掃しておくのもあながち意味なしとしないであろう。

どこからどこへという観念が生死と関連していることは明らかである。ところで、生死はあなたが造り出した最大の幻想であると説明しておいた。生死が幻想なら、二義的なこの問いも同様に実体のないものである。ただ生死の夢を見ているために、どこからどこへというありもしない問題に取り憑かれることになるのだ。…

宗教的真理は、奇妙に思えるが、どこに行くのでも、また何になるのでもなく、変わらずここにいたという表明でもあるのだ。なぜ宗教が(勿論、私の考える)、このようなとるにたりないことを重要に考えるかというと、あなたはここがどこなのかを知らず、生死の夢をむさぼって果てしない悲喜劇を繰り返しているからだ。
《引用終り》

ただ、イブン・アラビーは真理の否定的・虚無的側面で終わっているわけではなく、真理の肯定的側面に着目しているようです。

《以下引用(p125)》
スーフィズムは、キリスト教神秘主義に見られるように、肉体の内側は神の寺院(メッカ)であるという思想に基づいている。あなたの内なる実存は神の存在可能性であり、「神の国に入るとは、あなた自身の中へと入ることだ」。…

ルーミーが無になりなさいと言うとき、あなたが心の本源へと深く辿ることによって、このメタ宇宙的な無の空間('adam)に到達するならば、あなたの中で自然に古い人から新しい人への変容が可能になるという意味である。…

だからといって新しい人は古い人の棲家を離れて、どこかへ行ってしまうのではない。新しい人も古い人と同様、この世界に存在している。しかし、変容体験に伴って、今や世界は真実の姿を顕したのだ。世界を変えようとしたわけでもないのに、魂(神)の目を通して内から外を眺めるとき、ここは神の愛と美のビジョンで満ちた世界なのだ。…

これを実現したもの(普遍的人間)は、人間として知り得る究極のものを体験したのだ。これを越えるものはほかに何もない。彼の中には全宇宙が包含されている。彼は自己の中に全宇宙を見、全宇宙の中に自己を見ているのだ。神とはこの全体(すべて)をいうのである。

「世界は幻想である」から始めた私は、図らずも全く逆の結論に到達した。しかし、これは矛盾でも何でもない。「世界は幻想であるとともに、また真実でもある」。この逆説の中にイスラーム神秘主義の奥義がある。そのいずれであるかは、あなた次第なのである。
《引用終り》

これが「有無中道の実在」ということなのかと思います。

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