ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第六章 イブン・アラビー」(p111〜129)を読みました。

このイブン・アラビーの章は、「死」(p112〜120)と「無」(p120〜129)という2つのテーマで区切られています。今回は「死」について。

「スーフィー的死」という言葉が出てきます。「スーフィー」とは神秘家の意、その「死」とは「大死」と同義です。そして、宗教とは、死の練習を通して、生きている間に自分自身の死を体験的に知り、実際に訪れてくる最後の瞬間にも不死なるものとして甦るためのものである…「死を自ら体験することなくして、(永遠の)生命に入ることはできない」。

《以下引用(p118)》
死の練習とはどのようなことか、ごく簡単に触れておこう。言うまでもなく、スーフィー的死は肉体の死について言ったものではない。肉体を自ら破壊することの愚かさと、いわゆる死が本質的には自殺と何ら変わらないこともすでに指摘しておいた。
《引用終り》

これについては、私は、アウグスチヌスの「告白」の中の一節が印象的です。

《以下引用(p118)》
そこで肉体に対するわれわれの姿勢は、肉体を責めたり、厭い捨てることでもなく、また、しがみついてもならない。もしそのどちらにも与することなく中庸を保ち、肉体の内側へと独り辿りゆくならば、自我は自然に消え始める。というのも、自我とは肉体を自分と誤って同一視する思惑(ドクサ)であり、その結び目が解き放たれるにつれて、自我も揺らぎ始めるからだ。そしてやがては無の中へと消えるしかない。が、さしもの自我も無の中に消滅するまさにその瞬間、それがあたかも死の如く思われ、恐れ戦くとしても何の不思議もない――これが死の中で実際に起こっていることなのだ――しかし、スーフィーはこの死を受け容れる。なぜならこの死はすべての終りではなく、むしろ生命の絶頂(クライマックス)、新しい生命の始まりでもあるのだ。それ故、勇気をもって死の練習に努めるなら、いつか自我のヴェールは拭い去られ、消滅するであろう。その時あなたは自分が単なる肉体的存在ではなく、永遠に生けるものであったと知る。このように死の練習とは、あなたの自我が消滅することであって(無我)、永遠のあなたまで消え去るのではない。あなたはそれを越えた神的我として甦るからだ(無我の大我)。「私は無の中へと消え去り、消滅した。そして見よ。私は永遠に生ける者であった――私は唯一の神を見たのだ」。
《引用終り》

《インデックス》