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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「見通しは指導の命綱」(p192〜215)を読みました。(小林教室収蔵

「頭がよくなる」なんて、なんともベタ表現。学術的に定義するとしたら、かなり難しい。だから、学校や塾で真面目に使われることはほとんどないでしょう。

《以下引用(p192)》
斉田先生は「頭をよくする」という言葉をよくつかう。生徒の指導後に、また、教室での学習が終わったあとに、生徒に対して、ほんとうに心の底から「頭がよくなったねえ」と言う。そうすると、生徒もまた、自分でも「頭、よくなったなあ」という表情を返す。
《引用終り》

正しい定義はどうあれ、「頭がよくなる」指導をめざし、それが生徒に通じるなら、それでいい。「頭がよくなる」とはどんなことか?そんな議論は後からでもやればいい。

《以下引用(p194)》
斉田先生が発するこの「頭がよくなったね」という言葉は、日常的なものだ。小学校、中学校、高校、長い学習の期間を経過したあと、しみじみと相手の顔を見て涙ながらに言うのではない。一日の、一回の教室のなかでつかうのだ(きょうこの日の学習の積み重ねがさきざきの自学自習につながるということであって、たんに子どもたちへの一回だけのほめ言葉でないことはいうまでもない)。

「やりたくない」「したくない」から始まって、「したくないけど、できる」、「できるから、やらなくてもいい」と考える子が、いよいよ「したくなくなり」、そして、ほんとうに「できなくなる」。この「できなくなる」のサイクルは二年三年の長い時間のなかで起こることではなく、一回の学習のなかで起こっているとみる先生は、これまでいい加減にしかしなかった子、また、やりたくないからできなかった子、ほんとうにできなくなった子、その生徒に「ちょうどの学習」をととのえて、その日一日の学習のなかで、これまでできていたときと同じくらい「できた!」の感動を与え、未知の部分の学習に対しても「やりたくなる」学習態度にする。そして、こうした一日の学習が終わったときに、「頭、よくなったね」(先生)、「うん」(生徒)という会話がしぜんに起こるのだった。

これを「たまたまのこと」とみるなら、それでもいい。しかし、たまにでも一度できたのなら、二度目ができないはずはない。だから、次の学習日でも、この同じような思いをもって指導にあたる。そして、次の学習日でもこの指導をする。こうして、先生いわく、生徒はほんとうに「頭がよくなる」のである。学校でも、塾でも、とうてい発することのない言葉がここではふつうにつかわれている。
《引用終り》

前出の「逆S字型学習曲線」は、「頭がよくなる」様子を図示したものですね。

《以下引用(p196)》
「勉強ができる」から「道徳心」が失われたのではないし、「夢」がないから「勉強ができなくなった」のでもない。「健全なあきらめ感情」が社会的な人格養成に必要な覚悟だと言われても、ぴんとこない。できなかったことができるようになった、知らなかったことを知った、じっさいに小学生でも中学生でもこれを頭がよくなった事実としてうけとめている。斉田先生にはこの事実だけあれば、あとはなんの解説も釈明も不要である。「ちょうどの学習」が成り立っていくことだけを考えている。このほかのことの責任は学ぶ側にはない、と自信をもって言う。
《引用終り》

《インデックス》

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