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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

「死」とは、「私」からの解放であり、自由である。但し、ここでいう「死」は生物学的・医学的ものとは異なります

《以下引用(p109)》
…観想は、あらゆる自己同一化(肉体、記憶、観念等)を否定してゆく過程の中で、究極においては虚偽に過ぎない「私」を全面的に神的闇(無)の中へと解き放ち、完全に終焉させてしまうことであるから、その時、果たして恐怖などあるだろうか。恐怖をそれとして感じていたのは「私」であり、その「私」が観想の中で完全に死に絶えてしまうなら、そこにどんな恐怖もないであろう。これを自由という。つまり自由とは「私」からの解放であり、「私」の終焉こそ、死の恐怖から逃れる唯一の道であったのだ。しかも観想における「私」の死は永遠の生命に目覚めることであるから、内なる死の恐怖もまた越えてゆけるだろう。…
《引用終り》

「私」がなければ、恐怖もありえない…

《以下引用(p109)》
「私」の死と呼ばれるものがあり、そこから開かれてくる可能性を神秘という。それは眼に見える現実ではないが、真実である。そこに行き着くということはあっても、それを汲み尽くすことは誰にも出来ない(源は窮まれども、水は窮まわらず)。事実、そこに到達した人は、この神秘は知り尽くせないと知るのを常としている。知るものは黙し、無知なるものはいつの世も饒舌である。それにもかかわらず、自分にはまだ知るべきことが無限に残されていること、それを言い表す言葉はないとはっきり知りながら、なお神秘家が口を開くとすれば、そこにあなたが存在しているからではないだろうか。
《引用終り》

悟った者は、さりげなく衆生(あなたがた)の中に入って、本源へと導く…

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