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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

《以下引用(p107)》
「神はすべての原因であるが、それ自身は無である」とディオニシウスは言う。神が無であるとはどういう意味であろうか。この無を、有に対する無と考えるのは誤りである。そういう意味において、神は有でもなければ無でもない。神はいずれをも超えている。無からの創造という場合も同様である。…
《引用終り》

これは、「空」ということではないのか?

《以下引用(p107)》
観想においては、知覚や思考から離れ、深い静寂と沈黙の中で神を見るのであるが、対象として神を認識する「私」が完全に神的闇の中に消え去った、なおその後に残る開かれた空間(スペース)を無と呼んだまでだ。勿論、その時、私(とも言えないが)は何も見ていない。パウロが「何も見なかったとき、私は神を見たのである」という逆説は、この消息を物語っている。認識する「私」がいないとき、存在に関するあらゆる概念(妄想)は消え去り、その後に在りて在るもの(神)だけが存在する(「彼(パウロ)はすべての被造物が無であるところに神を見た。彼はすべての被造物を無と見たのだ」)。…
《引用終り》

消え去った、その後になお残る「私」の残滓…識の転変を思い出しました。

《以下引用(p107)》
神秘神学において、まず神を知るという場合、極めてわずかではあるが、いまだ「私」の残滓のようなものがあって、何か神の属性(美、愛、歓喜など)を見ている。一方、無として神を知るという場合、知る「私」は完全に払拭されているのである、神を知ったことさえ知らない。言い換えると、神を知るに至ったけれども、そこに知る「私」がいなかったので、神を知ったとは正確には言えない(無知の知)。神を知ったという人は神の属性を見ていたのであり、神自身を知るに至った人は、その足跡(Vestigium)さえ留めていないのだ。約すると、神を知ったという人は神を知らず、神を知らないとする人は神を知ったということになろうか。
《引用終り》

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