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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどの学習に必要な二つの目」(p165〜192)を読みました。(小林教室収蔵

前回の「生徒一人ひとりに目をくばることなど、しない」ということは指導の手抜きのようにも聞こえますが、もちろんそうではありません。

親子関係における今昔の違いは、関わり合いの濃淡かと思います。昔は、家事も大変だっただろうし、兄弟も多かったでしょうから、一人ひとりにかまっている時間など無かったはずです。

今は学校での親子行事も多く、真面目に顔を出していたら仕事をする暇もないほどです。子どもの勉強を見てあげることも、宿題の管理も重要な親の義務になっています。それで、昔の子供よりも勉強ができているかと言えば、そうでもない。ゆとり教育から脱却しつつあるとは言え、私たちの頃よりも課せられているカリキュラムはまだまだ軽い。

親の務めとして最も重要なのは、子どもの相手をニコニコと長々とすることではない(もちろんこれをするなというわけではないが、「最」重要課題ではないと思う)。子どもを自立させることである。としたならば、いつでも、そして、いつまでも、子どもに優しく手を差し伸べることが、親のやるべきことでは断じてないはずなのである。

意図していたかどうかに関わらず、昔の親はそれができていた。そうせざるを得ない事情があったとも言えるけれど。子どもとの関わりは薄い分だけ、熱い思いを子どもに向けていたのではないかと思う。

今は、嫌というほど関わりを強いられるものだから、逆に子どもへの思いは薄らいでいるのではないか?

学習に関しては、やはり前述の養老さんの言葉が参考になります。「教える」ことが生徒のためだというのは、単なる思い込みなのです。

《以下引用(p191)》
自学自習を指導する教室というイメージは、一般にはなかなか思いうかばないかもしれない。教室の風景といえば、ふつうは学校の教室がまず頭にイメージされる。比較的きびきびとした大きな声が教室全体の均一感を生み、ときには手を上げさせたり、返事を要求したりして、先生が生徒に語りかけている。黒板に文字を書きながら説明をしているときもある。先生は一生懸命なのはよくわかる。しかし、生徒はといえば、緊張感がない。授業は毎日のことだから、そうそう元気があって活発なときばかりではないのはわかる。しかし、問題は別のところにある。まさに養老氏が言った言葉が思い出される。「教えると、それ以上考えなくなる。だから、させればいい。させれば、いやでも考えるようになる」。先生の授業を聞いているだけの生徒は、いっこうに考えようとしていないのである。…

教室での指導者の最終的な務めは、生徒に自学自習させることである。だから、自分の席で生徒が自学自習している姿を見られる位置に指導者はいるほうがのぞましい。教室レイアウトの基本の一つである。出入り口がよく見える位置、あるいは出入り口の近くに指導者はいたほうが一見のぞましいように見えるが、それよりも指導者が自学自習するように指導した生徒が、自分の席にもどって、どんな取り組み方で学習をするのか、これを見る位置にいるべきである。生徒にとってもまた、指導者の姿が見えていたほうがいいはずである。
《引用終り》

ですから、決して生徒を見ないというわけではありません。立ち木のかげから見る(親)という感じでしょうか…。

《インデックス》

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