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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

観想の実況的なところ。アウグスチヌス聖ヨハネと読み比べたいところです。

《以下引用(p104)》
観想という本源に回帰する旅の初めは、様々な記憶、欲望、思考が行き交う混沌であるだろう。しかし、それに干渉することなく見続けていると、やがてイマージュの流れは止み、精神(こころ)は次第に静まって、深い沈黙の中へ入ってゆくかのよう。さらに精神の裡に何ものも投影することなく、深く本源へと辿ってゆくと、そこはディオニシウスのいう「神的闇」であり、観想者が遭遇する「最後の抗争」の場であり、魂の荒野なのだ。その闇の中では「私」などかつて一度も存在しなかったかのように砕かれ消されてゆくように感じられる。眼もあやな、神的闇の空間に飲み込まれ、「私」が消え入ろうとする瞬間、もし退くことなくその中へ飛躍したならば「私」は死滅してしまうであろうことを感じとって、恐怖のあまり「私」という観念にしがみつこうとする。「人間は私(神)を見ることはできないであろう。なぜなら私を見るものは死んでしまうであろうから」。神の一瞥があなたの死を意味しているということ、これが宗教の世界に入る場合の、第二の理由にして最も難しい問題なのだ。
《引用終り》

死んで仏になる瞬間…

《以下引用(p104)》
しかし、「神を見るという幸運にめぐまれた人達は、この闇の中へと入っていった」。「私」の死に直面して、なお闇の中に自らを解き放ち、内なる死を受け入れることが、宗教的自己否定(放棄)と言われるものなのだ。深い観想の中で遭遇する死の危機を通り抜ける勇気ある人だけが、神の光に浴することができる。というのも神的闇は、実のところ、われわれの光(理性の光等)を遥かに凌駕する、あまりにも偉大な神の光そのものがもたらした闇(divina caligo lux)であり、「光は闇のうちに輝いている」のである。このように観想が辿るプロセスを、ディオニシウスは要約して「われわれは完全に自分自身から離脱して、神の中に生まれるのでなければならない」と言う。
《引用終り》

宗教的「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ですかね…

《以下引用(p105)》
再生(復活)とは「私」が連続的に神の中へ移行し、存続してゆくことではなく、むしろ完全に「私」が終焉することによって、神の生命に目覚め、古い人から新しい人へと質的変容を遂げることである。この質的変容を進化というが、これはあなたの本源への回帰であり、本源からさ迷い出たあなたが再び本源に帰着したまでのこと。再生にはその意味も含まれている。従って、進化とはいうものの、実際には新しい何かになるのではなく、本来の自己に目覚めたに過ぎない。そして目覚めてあなた自身の本源に帰入するとき、あなたは自分が誰なのかを知る。というよりは、そこに「私」が介在しないとき、神だけがあると知る。このような意味において自己認識が神認識となっているところに、真の宗教の隠された奥義があるのだ。

あなたが目覚める覚醒の瞬間、内側から込み上げてくる言い知れぬ歓喜がある。それをエクスタシーという。
《引用終り》

神認識については聖ヨハネのところにもありました。

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