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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

前回引用部のバッチリ続きなのですが、観想とは?宗教とは?に対する説明が良かったので、またまた引用します。

《以下引用(p101)》
ディオニシウスは、若いティモテに自分の祈りを語って聞かせる。そこには若者への温かい配慮が感じられるとともに、神に至る確かな道を歴史の上に刻もうとする揺ぎない自信が漲っている。「ティモテよ、観想に取り組むときには、知覚や知性の働きを一切止め、それらを越えた、かの者と一つになるために無知(agnosia)の中を可能な限り昇って行きなさい」。彼のいう観想の秘儀とは、知識を頼りにしたり、思考をめぐらすことではなく、人間が造り出した神の観念をも捨て去り、精神の働きを息め、できる限り神の光へと辿るというものである。知識や経験は、日常的な問題に対処するには必要であるかもしれないが、真理(神)に至るための手段となり得ないばかりか、かえって障害になるのだ。

宗教は、学問の本来の意味である知識や情報の操作とは何の関係もなく、主体性の問題、つまり認識する私とは一体誰か、どのようにして私が意識されるようになるのか、また自意識を構成するものは何かという、およそ日常性の中では問われない問題を提起したのが宗教であった。この私の理解をめぐって、宗教は単に倫理の問題になり下がったりもするのである(事実そうなっているのであるが)。
《引用終り》

アウグスチヌス聖ヨハネの観想の説明と合せて読み比べたいところです。

聖なるものを俗界に留まらせるための努力というか執着が、宗教を変質させ、別なものになってしまうことは前回と重なります。「死んで仏になる」という誤解と比べるのも面白いかと思います。

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