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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどの学習に必要な二つの目」(p165〜192)を読みました。(小林教室収蔵

前回のよくありがちな教室に関して…

まず、指導者が生徒の学習を管理し、アシスタントは黙々とマニュアル通りの採点をおこなう教室の場合。

《以下引用(p175)》
机間巡視という形で、ぐるぐる机のあいだを回っては、注意すべき生徒を見つけて、そこで指導をしているという。しかし、それでは自学自習の指導を徹底するまでには至らない。たまたま見出した問題のある生徒に注意をしたり、手が止まっている生徒にヒントを与えたりすることぐらいはできるが、それは偶発的であり、底のあさいものである。周囲には他の生徒たちがそれぞれ問題をかかえつついるわけだから、集中的に一人の生徒にかかわるわけにもいかない。指導とはさきにも述べたとおり、生徒を学ぶ主体へと変えることである。指導、指導といっても、やり方の説明や答え合わせに類した指導はその名に値しないのだ。中途半端にならざるを得ない。結局のところ、学習上に問題のある生徒に目をつけて管理監督するだけになる。
《引用終り》

もうひとつのパターン、アシスタントが採点から生徒の学習まで行い、指導者は雑用係になっている教室の場合。

《以下引用(p175)》
指導らしきと見えるものは、アシスタントがおこなっている。解き方を教えたり、まちがいを指摘したりする。しかし、それはやり方や解答の導き方の指導ではあっても自学自習を指導していることにはならない。かえって生徒の自学自習にとってジャマになるヒントを出す場合さえある。訊けば教えてくれるアシスタントがいる。わからなくなったら訊けばいいのである。生徒は自学自習のきびしさを知らない。また、自学自習ができたとき、自分がそれまでの自分とちがった場所に立っていることを自覚する喜びもないのである。
《引用終り》

実際は、どちらかにきっちり分類できるわけでもないと思います。同じひとつの教室が、前者のような弊害を起こしかねない状態になったり、後者のような状態になったりするのではないでしょうか。

《インデックス》

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