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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

宗教と科学(学問)との対比は『瞑想の心理学』の序章第一章でも取り上げられていました。今回は前者の視点に近いですかね…。

《以下引用(p99)》
科学的真理は一度発見されると、すべての人にとって共通の利益となり、既成の事実として更に発展してゆく。そこには退くということがない。一方、宗教的真理は個人の体験にとどまり、それを直接他者に手渡すことはできないし、伝統的に受け継がれてゆく性質のものではない。この意味において、宗教的には誰も他者の師たり得ないし、また弟子でもない。真理への扉を開くかどうかは、あなた次第なのだ。伝統や儀式のみが重んじられ、やがて宗教が形骸化の道を辿り、ひいては世俗化が避けられないのも、宗教的真理が常に個々の実存を通して獲得されるべきものであるにもかかわらず、その体験にまで至らなかった人種(学者を含む)が招いた不幸といわねばならない。

しかし、真理に目覚めたものは、自分と他者が本質において同じであること、あるいは同じ真理への可能性を宿していること、違いといえば、可能態と現実態の差異があるに過ぎないと知っている。真理の強要、かまびすしいだけのプロパガンダ、意味のない神学論争、どれも真の宗教的な人間にとって似つかわしくない。幾多の存在形式を経て、ようやくここまで辿り着いたあなたが、今生において真理に目覚めるようにという、唯一つの祈りを鳴り響かせていることなど、凡庸な人間のあずかり知らないところだ。

人を持ち上げたり、貶めたりすることが如何に馬鹿げたことか、称讃と誹謗が所詮、自己(人間)の本質を知るに至らなかったものの誤解に過ぎないことにあなたは気づいているだろうか。もしあなたが真理に目覚めたら、あなたと私の間に何の相違もない。あなたは私であり、私はあなたなのだ。この事実を知るに至らない限り、あなたは全体性から孤立した存在として、悲しみと惨めさはなくならないであろう。
《引用終り》

前回引用部の続きであり、越三昧耶的な内容はかぶっているのですが、表現が好きだったので引用してみました。

「その体験にまで至らなかった人種」が宗教を歪めてきた事実は大きいと思います。ただ、考えようによっては宗教に限ったことではないかもしれません。

例えば鍼灸という仕事であっても、師という存在は不可欠で、師からしか得られないものは厳然としてあるのだけれど、それは最も本質的な部分ではありません。患者さんと触れ合うその微妙な感覚(あるいは技術)の本質は、師から学びとれるものではないと思います。その施術者固有の目、耳、鼻、舌(これは使わないかな…)、身から得られる情報を基に、その施術者固有の意をもって施術の判断を下し、その施術者固有の手をもって治療するわけです。そこに師が入りこむ隙間はない…。

それでも、親の仕事を継いだ方が自分も周囲も助かるというような本来的でない事情によって、引き継がれていく場合が多いわけです。

宗教とて、その世俗的な事情から独立して存続することは難しく、宗教であるだけになおさら皮肉でもあります。そして、それに惑わされる凡夫こそが何より哀れなわけです。

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