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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどの学習に必要な二つの目」(p165〜192)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p166)》
教室には指導者が一人、それからアシスタントが時間帯によって入れ替わるが、7〜8名はいる。幼児教室に子どもを連れて来ていたお母さんがそのままアシスタントとして残って仕事をする場合が多い。もちろん、そのアシスタントの子どももそこで学習している。お母さんであっても教室の仕事をするときは、アシスタントである。先生の叱正はこのお母さんアシスタントだからといって、ゆるめることはない。理不尽な叱正はないが、遠慮もない。しかし、先生の叱正の内容はいつも具体的、その意味するところは子どもの学習をよくするためのものだから、叱正という感じよりも、むしろ指導上の注意にちかい。言葉のおくには「こうすれば、もっとよくなるのに」という気持ちがあるから、アシスタントにも生徒にも、なるほどと納得のいくものばかりである(このお母さん方はこの仕事をすることで、自分の子どもの教育についてかなり得がたい経験をすることになる。先生の言葉はアシスタントにとってもお母さんにとっても意味のあるものなのだ)。学習姿勢がくずれかけている生徒に対する叱正も、しかりとばすというのではない。「ここだけなおせば、学習はもとどおり改善するにちがいない」という気持ちから発せられた言葉である。
《引用終り》

仕事に真剣に取り組んでいればいるほど、言葉は鋭く真っ直ぐになるものです。子どもの学習を改善するんだという強い気持ちが込められていなければ、単なる八つ当たりになってしまいます。

アシスタントの側にも叱正の裏に込められた強い気持ちを汲み取るだけの度量がなければ、この関係は成り立ちません。お母さんの側にも、子どもの側にも。

斉田先生の教室では、突然、アシスタントが集められることがあるようです。まさに臨戦態勢ですね。

《以下引用(p167)》
「みなさん、集まってください。この教材を見てください。この教材の解き方ではいけません。通分のここがちがってます。わかりますか。これを見逃せば、生徒はあとで困ることになります。」

スポーツクラブのコーチが選手に「全員集合」とかけ声をかけるのに似ているようですが、と問えば、「だって、すぐに全員に知ってもらったほうがいい内容だったら、全員に集まってもらいます」、こうした突然の集合が教室に起きても、学習中の生徒はなんの変化もなく学習をつづけている。この教室ではよくあることなのだ。

どんなタイミングで叱正するのがいいか。「まちがいが生じたそのとき、まちがいを発見したそのとき、間をおかずに伝えるのがいちばんです。そうでなければ、注意しても聞く耳がないし、こちらも忘れたりすることがあります。」
《引用終り》

ところで、この教室では、「教える」のか「教えない」のか…

《以下引用(p168)》
生徒が甘えて解き方を求めてきたとき、アシスタントである採点者がまちがっているところを指さしなどして、ヒントを与えるようなことがあっては、先生の指導は成り立たない。こうした採点者のでしゃばりはもちろん許さない。このでしゃばりと、教室における「ちょうどの学習」を維持するアシスタントの仕事は似てはいても、まったく非なるものなのだ。

学習がスムーズに進み、教室がとどこおりなく流れること自体に意味はない。問題は生徒が学習に真剣に取り組む教室の場づくりである。ヒントを与えたり答えを教えたりすればするほど、生徒は学習に真剣さがなくなる。「できた」という最後の評価だけに気持ちが動いてしまって、教材に自分だけで向かう姿勢がゆるんでくる。

「いい?解き方やヒントを教えて、どうするの。解くのは生徒のほうでしょ。わからない問題を考えるのは生徒ですよ。まわりの大人が解き方やヒントを教えては、生徒はほんとうの勉強ができなくなりますよね。自分の力を正しく見てもらえないし、自分にあった指導ができなくなるでしょう。結局は生徒にも損ですよね。」

こうした大人同士の会話をもれ聞いた子どもは、もう二度とアシスタントに甘えることはない。子どもながらに自分でやらなければ、と思う。
《引用終り》

《インデックス》

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