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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

《以下引用(p99)》
ここで無神論について一言しておこう。神の存在証明は、論理の問題ではなく、今述べた意識の相違による。主客相対の現象意識に留まるものに神は見えてこない。神秘神学と科学(学問)が決定的に異なるのは認識の特異性にある。それを知らず、如何に無意味な議論や偏見が横行しているか、驚くばかりだ。神の存在を客観的に証明することは誰にもできない。主観と客観が、一つに融け合う覚醒の瞬間、神の一瞥が可能になるのであって、そのための宗教的秘儀(後述)を経たことがないものが、机上で神の存在の有無を証明しようとするなど滑稽の極みである。ありていに言えば無神論などありはしないのだ。無神論とは神体験に至らなかった者(これが人間の不幸の最たるものであるが)の戯言に過ぎない。だからといって、私は素朴な有神論の立場をとるのでは勿論ない。それが体験ではなく教義の信仰以上の意味を持たないからである。
《引用終り》

この文章を読んだら、なぜか空海が最澄に激怒した越三昧耶の話を思い出したので読み返してみました。

最澄は、学問として仏教に取り組んだ人のようです。一方、空海の言葉は「全て自分の体験として捉えよ」と言っているようで、この本が何度も繰り返している内容とも合致するように思います。

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