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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどなど、ない。ちょうどにするのです。」(p154〜165)を読みました。(小林教室収蔵

ヴィゴツキーの「最近接領域」は「次に続く発達の領域」ということではありましょうが、単に今理解できている箇所の隣ということではなさそうです。

《以下引用(p161)》
いまわたしたちにさし出されている問題は、学ぶことをいやがり、学習から疎外されている子どもたちを、学ぶって、たのしいことだよ。だいじょうぶさ。いっしょにやっていくから、きっとできるようになるよ、こうした学びの夢空間を語ることではない、ということなのだ。そうではなく、生活のまま、自然のままにいる子どもたちが、学びの意義を体感し、いかに教育への信頼をとりもどして、みずからが学ぶことに邁進していけるかが、むしろいまの問題なのだ。自然のままにいる子どもたちの言葉は生活から飛び立つことがない。どうしてもその生活に制限される。この呪縛から解き放って、自分自身の言葉を自覚的に、そして、自由につかえるまで心理機能を高めなければならない。このときに重要な武器になるのが、科学的言語の体系性の習得なのである。こうした体系的な概念の習得が生活にしばられている子どもの精神をいかに解放していくか、こうした問題にじつにユニークな解答をしめしたのが、ヴィゴツキーの唱えた「発達の最近接領域」だったのである。
《引用終り》

「学習とは?」の再定義がなされたような気がします。それを踏まえて、「ちょうどの学習とは?」

《以下引用(p163)》
科学的概念の総体としての体系が内面化されているかどうか、これが「ちょうどの学習」かそうでないかの分岐点になる。指導者は生徒の反応を教材のなかに見て、さらに指導を徹底するか、それとも、一時これを中断して学習を元にもどすかを判断するが、斉田氏はさらにさきにすすんで、その概念の体系性を学ばせる指導をおこなうことで、生徒自身の習得する道の選択、すなわち、この学習が「ちょうど」か「ちょうどでないか」の見きわめをおこなっていたのだ。これこそ「次に続く発達の領域」に立った、指導者による「ちょうどにする学習」だといわれる所以なのである。斉田氏の指導を、たんに高教材学習者をふやすための指導だというのは言いがかり以上のものではない(どの教材が「ちょうど」なのか、わからなければ先に進めてみる、はっきりするはずだ)。
《引用終り》

気に入った文章があるので、もうひとつ引用します。

《以下引用(p164)》
人間はコンピューターではない。主体性の根源には人が生きることに必然のイメージがつきまとう。このイメージはとかく芸術的分野だけに専有されがちなものであるが、もちろんそればかりではない。人は感情をもち、イメージを働かせながら生きている。この感情が織りなすイメージに、さらに科学的概念の網をかければ、この概念自体は抽象的なものだが、それゆえに自覚的・随意的な働きをするイメージを生み出すもとになる。
《引用終り》

勉強しているのに賢さを感じない人と、勉強して確かに賢くなっていく人がいるように思うのですが、この辺に由来するのかな…と、ちょっと思いました。後者の人が発する言葉は、あまり馴染みの無い専門用語でも心にガツンとインパクトしてきて、「ああ、この難しい言葉はこういうふうに使うのか」という気づきがあります。これこそが、知的快感なのですが。

《インデックス》

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