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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどなど、ない。ちょうどにするのです。」(p154〜165)を読みました。(小林教室収蔵

私は教員の免許を取るために、大学時代に夏休みの補講に出た覚えがあります。「教育心理学」という講義だったでしょうか、「臨界領域」という言葉だけ特に印象に残りました。この言葉を使ったのはピアジェだったようです。本書で取り上げられているのはヴィゴツキー。彼は「最近接領域」という言葉を使っています。

《以下引用(p158)》
一般に子どもの発達は、「できる領域」と「できない領域」に分けることができ、学習することによって、じょじょにこの「できない領域」を「できる領域」に変えていくことだと考えられている。これにヴィゴツキーは「独力で」という学習状態を加えることで、これまでになかった「(独力で)できない→(独力で)できる」という流動的な領域を新しく切りひらいた。

「できる領域」、「できない領域」、この二つの領域のあいだには、大人などの指導によって、独力でできなかったものができるようになる、いわば灰色で流動的な領域がある。ヴィゴツキーはこれを「発達の最近接領域」とよんだのである。すなわち、「独力でできる領域」――「いまは独力でできないが、適切な指導があれば、独力でできるようになる領域」――「どうあっても、できない領域」という三つの領域をおき、「できる領域」でも「できない領域」でもない、「できる」と「できない」が流動する領域に目を向けたのがヴィゴツキーだったのである。
《引用終り》

この考え方は、教育界にいろいろな影響を与えたようですが、それだけに取り扱いに注意が必要であると著者は指摘しています。

《以下引用(p158)》
こうした教育の傾向に対して、発達心理学者の中村和夫氏は、ヴィゴツキーが研究したのは「子どもに習得された文化的方法がどのように心理的機能として自覚的、随意的なものに発達していくか」にあったと否定的に指摘している。つまり、「科学的知識の体系化を学ぶことが、どのようにして生徒の内面化を発達させ、生徒がもつ生活的、自然的概念を、自覚的で、随意的なものにしていくかが、ヴィゴツキーの関心事である。生徒の心理にひそむ内言が、体系的言語の獲得によって、生徒独自の高次の心理機能を習得できることを問題にしたのである」(『ヴィゴツキー心理学完全読本』2004)と述べている。傾聴すべき意見である。
《引用終り》

国語力の重要性を指摘しているようにも見えます。

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