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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどなど、ない。ちょうどにするのです。」(p154〜165)を読みました。(小林教室収蔵

「先生、ちょうどの学習かどうか、どうしたらわかりますか」という質問に対して、斉田先生は答えたそうです。
「ちょうどなど、ない。ちょうどにするのです。」

《以下引用(p155)》
生徒が知らせるのは学習がむずかしい、くるしい、やさしすぎてかったるいといった兆候だけである。この兆候を見れば、生徒がいまの学習を順調に進めていないだろうということはわかる。しかし、「ちょうどの学習」がどこにあるか、何が「ちょうど」なのか、これを教えてくれることはない。

斉田先生はどうするか。教材から聞く。教材に表れたまちがい、そして、その訂正、また、これをふくんだ教材学習にかかった時間、さらに生徒の学習態度の形成の仕方というシンプルな兆候を見る。しかし、これはあくまで兆候にしかすぎない。生徒を呼んで、直接、指導して、そのときの生徒の学習への向かい方を看る。「ちょうどでない学習」にある生徒をまえにして、斉田先生はどこにその原因があるのか、何が不足しているために「ちょうどでない学習」になっているのかを究明する。この究明は指導者がしかけることによって浮き出るものである。見ているだけでは表れない。そして、自学自習が可能になるまで指導を徹底する。いわば、生徒の「ちょうどでない学習」を、「ちょうどにする」のである。こうした指導のなかで、生徒の「ちょうど」が見えてくる。
《引用終り》

「成らぬは人の為さぬなりけり(上杉鷹山)」とか「鳴かぬなら鳴かせて見せよう(豊臣秀吉)」を思い出したのですが、こういう能動的な意気がなければダメですよね。「ちょうど」が自然に訪れるのを待っているようでは指導者とは言えない。家康も積極的に画策していたわけで、ただ待って成功したわけではない。

おっと、戦国時代の話ではありませんでした。次回は教育理論…。

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