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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第四章 十字架の聖ヨハネ」(p71〜90)を読みました。

《以下引用(p85)》
知覚の世界に対して目を閉じ、観想のうちに自己の内奥に入って行くと、初めてそこは広漠たる闇だ。そればかりか様々な思考と記憶が錯綜する闇の巣窟であるだろう。しかしそれらのものから能う限り離れ、内的無為のうちに魂の内奥に隠された至高の宝所に向かって進むべきである。…

(p86)…神を見ようとする人は自分自身闇と化してしまうのだ。さらに観想の深まりにおいては、肉体と魂の間にある調和が掻き乱され、魂は暗闇の深淵(黒暗無明の深坑)に飲み込まれ、肉体から解き放たれてしまうような恐れがある。ここに死を感じとった魂は、その恐怖故に身を翻えそうとする。このように神との出会いは人間が遭遇する最大のカタストロフィーなのだ。

…「壮絶な抗争は闇の中で行われた」というのも、人間が自分の存在のすべてをかけて神の挑戦を退け、神から背を向けようとするのは、神と人間は並び立つことができないということ、つまり神を見ると魂は肉体から解き放たれ、自我は死んでしまうのだ。…これが二人の主に仕えることができないという本来の意味である…
《引用終り》

そして、その暗闇の果てに…

《以下引用(p87)》
観想の暗夜において身を翻えすことなく暗闇に順応するとき、やがて(?)人は神の光が何であるかを知るようになる。…

観想の光が魂に惹き起こす神的歓喜(エクスタシー)は実に驚嘆すべきものであり、神のこれほどの恩寵を言い表す言葉はない。しかしこの照明が如何に優れたものであろうとも、これは魂に何かを付け加えるのではなく、魂がすでに所有しているものを明るみに出し、神において享受するまでのこと。…魂はその本質を変えることなく神の如く見える(deficatio)。魂の内奥に輝く神の美を見るや、魂はこの美に吸収され、この美によって、富されるからだ。そして「私の美はあなたの美、あなたの美は私の美」と聖ヨハネが言うように、自ら移ろう美ではなく、美そのものとなっているのだ。
《引用終り》

アウグスチヌスの章での描写と比較してみて下さい。

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