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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第四章 十字架の聖ヨハネ」(p71〜90)を読みました。

人間の歴史はどこに行き着くこともなく擾乱と葛藤を繰り返している。しかし…

《以下引用(p83)》
われわれの社会は、このようなことを一顧だにしたことがない賢者から成り立っている。それ故、神の賢者と世俗の賢者とは、相互に愚者に見える。「この世の知恵は、神のみ前に愚かである」。
《引用終り》

胸を露わし足を跣(はだし)にして鄽に入り来たる
土を抹(な)で灰を塗り笑い腮(あぎと)に満つ


ということですね。

《以下引用(p85)》
「神は目も見ず、耳もこれを聞かず、人の心に思い浮かぶことのないものである」。感覚(知覚)と理性(思考)のいずれもが神を知る器官でないのなら、われわれが神を知るための方法論は一体どのようなものであろうか。人間的関心事は、それに相応しい方法に基づいてなされる努力と能力をまって成就されるが、そういう意味における方法論は宗教にはあてはまらない。宗教が他の試みと決定的に相違するのは、この方法論にある。

われわれが神について知り得るすべての知的認識は、それがどんなに崇高なものであろうと神認識ではない。むしろそれらを超えて、無知の境地にまで至らねばならない。われわれは理解しようとするよりも、むしろ理解しないように努めるべきなのだ。…外的、内的な事柄から心を引き離し、神のうちに愛に満ちたまなざしを注ぎつつ、いわば死につつ生きるというテクニックが十字架の聖ヨハネのいう観想なのである。
《引用終り》

この「愛」は当然のことながらキリスト教の「愛」ですね。仏教の「愛」ではないですね。

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