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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「どこに価値をおいた教室をつくるか」(p134〜144)を読みました。(小林教室収蔵

そんな多様化の波の中で、時代の終焉と次の時代の黎明を敏感に感じ取って、それを表しているかの如き教室がありました。能力開発に切磋琢磨する教室から抜け出そうとしている教室がありました。

《以下引用(p137)》
斉田先生の教室は公文式の教室のなかでも一頭地を抜いて、子どもたちの能力開発に積極的な教室である。その実績はハンパなものではなかった。数人の優秀児、それも三学年先、四学年先の生徒の輩出をねらう他の多くの教室にくらべると、その学習の成果は図抜けて特異であり、非公文式といってもいいほどだった。教室の生徒の半数以上の生徒が三学年、四学年以上の教材を学習している。七学年以上、八学年以上を学習している生徒もふつうに学習していて、めずらしくない。教室に行けば、いつも最終教材にちかい生徒が何人かはいる教室である。まさに創設者公文公氏が以前からめざした教室像そのものがここにあるといった感じだが、公文式ではひとり際立ちすぎていた。じっさい、斉田先生の指導は特別だから、マネをしないようにというお触れまで出たほどであった。

しかも、本人は自分の教室の進度一覧表掲載率(半学年先学習者の学習率)や三学年先、四学年先、五学年先の学習者が教室全体の何%なのか、知らない。関心がないのである。人から教えられて、はじめてその数字を知る、という人である。
《引用終り》

公文公氏は教室の指導者とひんぱんに連絡を取り合い、前線の状況を把握することに余念のない人でした。斉田先生は、そんな電話相手の一人でした。

《以下引用(p138)》
斉田先生の教室には活気がある。いつも臨戦態勢といった感じである。臨戦態勢、これは比喩ではない。教室に行ったときのあとに、本人はいつも、きょうはこうこう、こういう事情で、いつもとちがう教室であった、先生は言い訳をする。

いつもとちがう理由はさまざまである。教室のアシスタントに急な休みが出たり、たまたま自分の体調がわるかったり、いろいろな事情を現場はかかえるものである。理想どおりに教室が動いたことがない。こうした内輪のことなら、どこの教室でもあることだが、臨戦態勢で教室に立たなければならない真の理由は、肝心の生徒のほうがなんらかの非日常的な事情をかならずさし出してくるからなのだ。

このことがある人たちには問題のある教室だと映るようだった。ときに局員が教室を見学に来ることがある。来て見ての感想は、「流れが少し悪いですねえ」。こうした感想を聞くと、先生はこの局員にはもう来てもらいたくないと思う。いちいちきょうの教室の事情を説明しようとも思わない。流れをよくするために教室をしているわけではないのだ。この局員は教室に来て何を見ようとするつもりだったのだろうか。

目の前にどうしてもいまのいま、指導をしなければならない生徒がいれば、そこにどんな事情があっても、しなければならないことをするのが教室である。そのために教室の流れがわるくなろうと、生徒のほうに多少の停滞が生じようと、それがなんだというのか。こんなときは生徒のほうが教室の事情をよくのみこんでいる。自分の学習をかれらは我慢づよくつづける。突発事故が起これば、生徒を待たせればいい。待てないことはないのである。
《引用終り》

子どもが一人しかいない家庭でさえ、突発事故は日常茶飯事です。まして、数十人の生徒が入れ替わり訪れるのが教室なのですから、平穏であることがむしろ異常なわけです。

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