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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第四章 十字架の聖ヨハネ」(p71〜90)を読みました。

宗教とは…。

《以下引用(p80)》
では宗教とは一体何を為し遂げることであろうか。その目的と方法論は何か。

われわれの努力はいまだ所有していないものに向けられる。探求というのも未知なるものを探し求めることだ。そして努力なくして何事も成就しない。しかしこれとは全く異なる様式の探求がある。求められるものがすでに与えられているが、顧みられないために死に絶えたように埋もれたままになっている、それを再び甦らせるという試みだ。何か新しい画策とか、探求ではなく、すでに魂の内側に予定された「隠れた奥義」を探す。それを聖ヨハネは「ほかの日に神が魂に与えたもうたあのもの」と言った。
《引用終り》

神とは…。

《以下引用(p82)》
それなくして生が意味をなさない究極の真理を神という。そして、「神は魂の最も奥深くに隠れている」と聖ヨハネは言う。それなのに何故われわれは神を見ることも、感じもしないのであろうか。それは単純な理由による。神はわれわれの内側に隠れているのに、われわれは外側であらゆることにかかずらって隠れようとしないからだ。隠れたものを見い出そうとする人は、そのものが隠れているところまで入って行かねばならないであろう。同様に、神を見い出すためには、孤独のうちに引き退いて、われわれに属するすべてのことを忘れ、あらゆる被造物から遠ざかり、魂の奥の院に神とともに隠れるのでなければならない。そしてそれを見い出したときには、われわれもまた神と同じように隠れてしまうのである。

“隠れ”は聖ヨハネの宗教性を理解する上で殊に重要な意味を持っている。自己の内奥の深い隠れ家のうちに沈潜し、神と魂との一致(見神)に至るための方法論としての観想につながり、それはまた魂の肉体からの解放を可能にする。その結果、肉のわざは終り、魂の彷徨に終止符をうつのだ。その時、魂は自分自身から出て、神と冥合し(union de Dios)、彼と同じように隠れてしまう。そして隠れたものに隠れて奉仕する、それが祈りなのである。
《引用終り》

自分の中にある神の隠れ家、そこを訪れて、奉仕する…。

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