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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「ちょうどの学習が実現できる場」(p110〜132)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p128)》
斉田先生の指導はその場でできることだけに限定されている(まるで日常の家事労働のごとく、だ)。…生徒の学習が停滞して、とどこおっていることはないか、これをできるだけ簡便な徴候に見出す。そして、ここを突破口にして、ここに指導解決の方途を見出すのが指導者の務めであると覚悟しているのだ。徴候は徴候である。これ以上の意味はない。ないが、その原因をつかむ必要がある。そうでないと、生徒の真の学力の実態がつかめない。この指導者の仕事への向かい方が問題解決への道を開いていく。
《引用終り》

かつて公文氏が提唱した「3つのちょうど」。これを、斉田先生も指導の軸に据えてはいます。しかし…

《以下引用(p129)》
(1)「理解のちょうど」かどうかは、採点によって見つけられる。また、(2)「作業のちょうど」は教材一枚にかかる「標準完成時間」によって見出される。(3)「学習態度形成のちょうど」はその日の学習プリントの一枚目によって、ひいては新しい課題に入るところ、生徒にある意味の跳躍をもとめる問題において、把握されるのだ。…

しかし、じつはこうした教室の運営方法に先生の教室の秘密があるわけではなかった。…

生徒の学習状態が「ちょうどの学習」の状態にあるか否かは、こうした尺度ではわからない。わからない、と覚悟する点こそ斉田先生の指導のすごさなのだ。
《引用終り》

では、どうすればいいのか。

《以下引用(p130)》
自学自習の指導とは何か。生徒が次につづく教材を学んでいく準備ができているかどうか、準備ができていなければ、その準備をその場でする。つまり、生徒のいまの学習の次につづく学習を看る。…

斉田先生はその生徒が次のプリントに進んでいくのに必要なレベルの要求を生徒にする。生徒はその先生の要求にこたえる。こうした応答のなかで、はじめて生徒の学習が「ちょうど」かどうか、これがわかるのである。
《引用終り》

本文中にもありますが、本当に、当然と言えば当然のことです。

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