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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「ちょうどの学習が実現できる場」(p110〜132)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p123)》
解剖学者の養老孟司氏は、「学ぶとはどうすることか」というインタビュアーの質問にこたえて、「教えないことです」といった。「しかし、先生はながく大学などで教鞭をとっていましたが、」とインタビュアー。これに対して養老氏、「教えていないです。やらせるだけです。ぼくの専門は解剖学ですから、解剖をやらせただけです。やらせれば、生徒はしぜんと考えるようになっていくということです。教えると、ああ、そういうことですか、ということになって、学生は考えなくなる」。

この養老氏の言葉は、生徒に対してより、いまの指導者に対してのものだと考えれば、まことに身にしむ言葉である。「ちょうどの学習」を成り立たせる指導など、教えて身につくものではない。では、どうするか。教室での指導をくり返しくり返し実践しつつ、生徒の実態を見て、指導者自身、局員自身が考えなければならない。
《引用終り》

「教える」ことが生徒のためだという思い込みを排除することは、なかなか難しいことです。まして、他の人に理解していただくことは更に難しい。

《以下引用(p127)》
生徒の学習がうまくいかないとき、その原因を探っていくと、そのプリントではない、それ以前に学習した領域の不十分な定着に原因があることがわかったりする。指導者としては「アレー!」ということになるが、しかし、よくあることである。とくに生徒の年齢がひくい場合や学年をはるかに越えた教材を学習している生徒には、むしろありがちなことだ。当然ながら、さきの学習をおこなうにあたっては、この学力の不足が問題になる。だったら、なにもためらうことはない。いま、その場で指導すればいいだけのことである。多くの場合はすぐに思い出す生徒がほとんどなのだ。
《引用終り》

「今やっていることは後で学習することに関係があるから、ひとつひとつ完璧に習得しておかなければいけない」というのも、反対する人がほとんどいない常識的な考え方だと思います。でも、これも、ひょっとしたら、排除すべき思い込みなのかもしれません。

逆の見方をすれば、今やっていることが完璧でなくとも、先に進むことによって、後で再びそれを仕上げる機会が訪れるのです。「完璧」にこだわることも絶対条件ではなくなります。

例えば、足し算を学ぶだけでは、掛け算を踏まえた足し算の位置づけは理解できません。引き算を学ぶだけでは、割り算を踏まえた引き算の位置づけは理解できません。四則演算全てを、サラッと学習してから、それぞれの演算手法を学び直すことによって、大局的な理解もできようというものです。

逆に、この大局的な理解は小学一年生のカリキュラムだけでは不可能なのです。つまり、小学一年生のカリキュラムで、足し算を完璧に理解することなど無理なのです。

年齢のひくい生徒、学年をはるかに越えた教材を学習している生徒が、公文式では当たり前です。ですから、「アレー!」という状態は想定内であるし、当たり前でなければなりません。そして、後で振り返って、大局的な理解を深めるにしても、学年を越えているのですから時間的な余裕があります。

「アレー!」という状態を嫌い、同じ教材で足踏みさせ、ある程度の年齢になるまで待たせることを良しとする従来の常識的指導法では、後で振り返って、大局的な理解を深めるなどという呑気なことはできません。また、完璧な理解、万全な学習がその都度できていなければ、即落ちこぼれることになります。

《以下引用(p127)》
考えてみれば、生徒はいつも万全な形で学習しているわけではないのである。まちがいが多くなるのも、もとを掘り起こしてみれば、もともと「やりたくない」という生徒の側に重大な理由がある場合が多い。当然、学習するときも集中力が切れているわけだから、学習時間も長くなる。生徒が真剣に学習に取り組んで、そして時間がかかり、まちがいがふえるのは、むしろ問題は少ない。じっさいは、やる気がない、めんどうくさい、かったるい、勉強どころではない気にかかることがある、家庭での問題など、学習に困難なさまざまな状況をかかえている(だから、時間だけを復習の基準にして生徒の学習を裁断することはできないのだ。徴(しるし)としてとらえるのだ)。
《引用終り》

標準完成時間という徴を手掛かりに、個人別の親身になった取り組みが必要になります。そこから、いろいろなことが見えてくるはずです。

《以下引用(p127)》
学習というのは、たしかに生徒の生活のほんの一部分である。しかし、その一部にかれの生活のすべてが映っている。もちろん個人差は大きい。こうした個人に対して、ちょっとした兆候を見逃すことなくつかみだし、指導をおこなう。学習のなかに織り込まれているさまざまな個人別の要因をとり出し、解決をはかるのが指導者の務めである。学習状態の不如意の原因が何重にもかさなっている場合も多い。その問題の多さに呆然として手を上げてしまったら、指導はそこで中止になる。難題であればあるほど、まず目の前の問題点一つからつぶしていく。これしか方法がないのだ。いさぎよく目のまえの一つの問題の解決だけに力を注入する。すると、その一つの問題の克服がつぎつぎと生徒の別の問題の解決へとつながる場合はけっして稀なことではない。
《引用終り》

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