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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第四章 十字架の聖ヨハネ」(p71〜90)を読みました。

《以下引用(p72)》
人間は…真理を託された者というカテゴリーのもとで理解される。しかし今のところ人間は、その意義すら全く分からない無知に閉され、真理に背を向けてさ迷う闇の世界の動物となっている。…われわれが真理を見い出せずにいるのは何故であろうか。そのためにわれわれを駆り立てて止まない欲望のメカニズムを明らかにしておかねばならない。罪の縄目である欲望が真理を覆うヴェールになっているからだ。
《引用終り》

悟りのパラドクス」あるいは「命のパラドクス」…

《以下引用(p73)》
魂それ自身によって見る世界と、魂が肉体(身体的心作用)を通してみる世界は全く異なる世界であることにあなたは気づいているだろうか。…魂が肉体の中に閉じ込められている限り、牢獄の窓ともいうべき肉体を通して真理の影を見ているのだ。そうしていつしか人間はこの幻影に取り憑かれ、そこからありもしない自己という観念(自我)を造り上げた。そしてこの自我の投影に過ぎない夢を追い求める、それが実は欲望なのだ。
《引用終り》

言い換えると…

《以下引用(p74)》
経験の教えるところでは、欲望の充足はその瞬間だけのものでしかないことをわれわれは知っている。…遂には人は生の虚無性に捕えられ、深い絶望の淵で生を呪詛するに至るかもしれない。われわれがそこまで至らないのは、何とか虚無を避けて、自己のバランスを保っているからに過ぎない。それは時に愛であり、時に仕事でもあるのだ。…人は繰り返し虚無に遭遇しているのであるが、それから逃れるために無意識のうちにあらゆる手段を講じている。その試み全体が欲望なのだ。
《引用終り》

人は、それを求めずにはいられない…

《以下引用(p75)》
虚無の中では自我はその虚構が暴かれ、やがてはその中に消えるしかない。…その時、夢を投影することなく、〈死〉の淵に自らを解き放つならば、その彼方に真理が顕れてくるというものだ。…

宗教的な人間とは、生の虚無性を見ぬき、その中に深く入って、〈死〉の彼方に真理を見るに至った人だ。世俗的な人間とは、生の虚無性から目をそらし、いつまでもその周辺を巡り、架空の生にふける人のことだ。
《引用終り》

私たちは、欲望に逃げることなく、虚無と対峙しなければならない…

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