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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「ちょうどの学習が実現できる場」(p110〜132)を読みました。(小林教室収蔵

今日も斉田教室は大車輪で動いています…

《以下引用(p110)》
また別の採点者から教材とメモが送られてきた。先生の机にはこうしたメモや教材がとどいて、ならんでいる。このなかから、いまもっとも指導を優先しなければならない生徒の名を先生が先生が呼ぶ。呼ばれた生徒は先生の机のまえにすぐに来る。生徒が先生のところに訊きに行くことができないのは、先に述べたとおりだ。指名するのはあくまで指導者のほうである。これも家庭教師のやり方や個人別もどきの学習塾とはちがうところだ。私的営利の教育がすべて「お子さま主義、お客さま主義」かというと、そうではない。むしろ江戸時代の私塾にちかい雰囲気がある。生徒はいつも自力で越えられるか越えられないかの境界線上で学習をしている。生徒はそれまでに身につけたすべての知の力、身体の力、精神の力でもってこれを乗り越えなければならないのだ。子どもにおもねる暇などないのである。子どもを甘やかしてもいけない。あとで困るのは子どものほうである。だから、わからないからといって、すぐに助けを求められるような教室にはなっていない。
《引用終り》

生徒の状態は採点(間違っている箇所にチェックが入れられる)で把握します。したがって、採点はとっても重要。採点を担当しているスタッフにも厳しいようです。

《以下引用(p111)》
採点は速いに越したことはないが、見なければならないのは、生徒の教材への取り組み方である。「こんな途中式の書き方をしている生徒がどうして発見できなかったのですか」、「あなたが解答のヒントを与えてしまえば、指導者であるわたしは生徒のほんとうの学力がつかめなくなってしまうでしょう」、こうした注意は教室中、しばしば先生の口からほとばしる。
《引用終り》

採点は、指導の邪魔をせず、指導者に生徒の状態を伝えなければならない。しかも、ほぼリアルタイムで。

《以下引用(p112)》
さて、「チェック」の多い生徒の場合は、教材内容に関する理解がともなっていない危険がある。これを見のがせば、不十分な学力のままできょうの学習に取り組むことになる。したがって、その生徒の学習の準備がととのっているかどうかは、学習の途中であってもできるだけ早くに見つけ出す必要がある。斉田先生の教室では、これを放置しない。学習に必要な準備ができているかどうかを見きわめる。不十分だとみれば、先生の指導が入る。「チェック」の訂正はまちがったことへのペナルティではない。あくまで生徒の学力の実態を診るためのものである。自己訂正すること自体、学力の増強につながる。目的もはっきりしない不十分な自己訂正を生徒にいたずらに課すべきでなく、生徒の学力の現状を的確に判断して、より自覚的な自己訂正へと指導すべきなのだ。
《引用終り》

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