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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「斉田先生の教室で行われていたこと」(p90〜109)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p106)》
さきの例として出した個別指導を売り物にする塾などは、生徒自身がもつ可能性が指導にそくして輝き出すものだ、などということは想定すらしていないだろう。しかし、公文の教室だって、他人事ではない。クスリのようにあてがった教材を、指示した枚数だけ学習させ、マニュアルにある標準完成時間をあてはめて復習をくり返す教室では、図気砲△襦△い錣仭俺畧のような平板な学習曲線が、きょう一日の長い学習のなかで起きているのだ。そこに指導は入らない。いや、入れようとしない。指導をくわえると、自学自習でなくなるとはじめから思っている。図気里茲Δ癖身弔奮惱曲線をゆるす教室は、いくら指導の目標を立てようが、いくらマニュアル的な指導から脱却するのだといおうが、すでに十分にマニュアル的なのだ。格好は一見、自習のように見える。しかし、それは形だけであって、おとなしく学習しているようであっても、自学自習にともなう躍動感が影すら見えない。結果、学年相当の教材をちょっとばかり越えたあたりから、生徒の学習がなえてくる。これもすべては、その日一日のその生徒にふさわしい指導がなされなかったためなのだ。いずれも斉田先生の教室とは似て非なるものである。
《引用終り》

筆者は言っています。この斉田教室は、「特別研究生」とは違った方法でそれよりも高いレベルの自学自習を実現させ、「Iライン運動」が目指した教室の「場」自体の変革も成り立っている、と。

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