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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「斉田先生の教室で行われていたこと」(p90〜109)を読みました。(小林教室収蔵

さて、やっとこの本の主な舞台となる、斉田教室に関する描写が出てきました。一見、何ということはない、しかし何かが違うということのようです。

《以下引用(p92)》
教室見学をしたことのあるMの会のメンバーも同じ感触をもった。この教室に充満する緊張感が自分たちの教室にはない。ただけっして手のとどかない、彼岸の教室とは思わなかった。子どもの様子を見れば、自分たちの教室にいる生徒と変わりはない。斉田先生の教室の生徒はたしかによくがんばっている。教材がたかい。かなり長い時間、集中力を切らさずに学習をしている生徒もいる。しかし、当たり前のことが当たり前におこなわれているだけなのだ。これだけのことなら、自分たちの教室であってもできないはずはない、と思う。生徒も特段にできる生徒の集団だとは感じなかった。しかし、この緊張感はいったい何なのか。生徒が学ぶこの教材の高さは何なのか。先生がつくる教室の「場」が、生徒が、アシスタントが、そして先生自身が、何かに向かって闘っているという感じなのだ。この雰囲気は、残念ながら、自分たちの教室にはなかった。
《引用終り》

これは、自分で教室を運営したことのある先生方だけが感じ取れる、微妙なものなのでしょう。

《以下引用(p93)》
先生はいつも自分に特別な指導法などないという。謙遜というのではない、本気でそう言う。むしろ先生方のほうが自分以上に学力があるし、生徒を見る眼もたしかなくらいだ。もしわたしにあって、先生方にないものは何かと訊かれれば、それは「指導の徹底だ」と答える。

個人別に指導をおこなうとすれば、指導についてのさまざまな技術が必要となると考えられがちである。斉田先生には個人別に対応できるだけの指導の引き出しがたくさんあるからつよい、と言われたりする。「わたしにはそれがない。斉田先生にはできても、わたしにはマネできない」、と。

ところが、先生から、こうした意味での指導上のテクニックについて話を聞くことはほとんどない。生徒をみて、学習したプリントしか資料はない、これで十分だ。指導法がわかるというより、生徒と教材のほうから、これしかないという指導がおのずと出てくるのだ。だから、わたしが指示を考え出したというより、生徒のプリントが指導法をさし示す、といったほうがちかい。そのプリントがさし示す問題を乗り越えさせる、このやり方しか、自分にはできない。

指導の細目は先生にとって重要なことではない。指示することがちがっていてもいいではないか。ちがっていたら、学習が改善しないのだから、振り出しにもどったと思えばいい。こんなロスなどなにほどのこともない。そんなときは、また、プリントを見る。そして、今度はさっきとは別の指示を出す。これでいいのだ。ただ、生徒の教材を見、こちらの働きかけに対する生徒の反応を見れば、ああ、この生徒にはここが足りなかったのだ、しかし、この生徒にはこんな力がかくれてあった、ということがわかる。指導はここから始まるのだ。
《引用終り》

個人別指導なのだから、生徒によって十人十色なわけです。だから、その生徒の現在の状況に対して、ベストな指導がアプリオリに分かるなんてことは絶対にあり得ない。個別の事例から枝葉をもぎ取って抽出された教育理論やマニュアルが通用するわけがない。

指導者と生徒との、一期一会の真剣勝負なのですね。

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