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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「特別研究生の後につづく指導運動―Iライン運動」(p70〜89)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p76)》
これまでの指導運動は、「小六J」、「小四G」、「幼児方程式」といった点的目標であった。なぜか。まさにさきに述べたとおり、公文公氏の指導運動がいつでもモデル提示の形をとっていたからなのだ。目標としてかかげられた学年以外の生徒はどうするのか、公氏ならこう言うだろう、そんなことは自分で考えろ、と。モデル提示型実践法のこれが流儀なのだ。

ところが「Iライン」は線的な目標の提示である。どの学年にも妥当する目標である。ある学年、ある年齢の生徒だけを対象にしたものではない。これは重要な点である。点的目標の不都合を克服したという意味で、この「Iライン」運動は公文式の歴史を画するものだった。公氏の特定の生徒に焦点をあてたモデル提示の指導運動から、寛氏は「すべての生徒」に意味のある、文字どおりの教室自体の指導目標にしたのである。点的な指導目標に対象となる学年ばかりでなく、どの学年の生徒にとっても「Iライン」は指導の目標として生きることになる。この「Iライン」の指導運動がこれまでの指導運動と異なる点はここにあった。
《引用終り》

この特長が、私が「Iライン」を捨てきれない理由です。

「出発点主義」と「到達点主義」についても書いています。

《以下引用(p81)》
…こうした指導が「出発点主義」といわれるものである。ざっくばらんにいえば、出発点をきめて、ヨーイドン、結果は生徒次第、一年後どこを学習しているか、わからない、というものである。

寛氏の「到達点主義」はもう、こうした指導から卒業しようというものだった。…

指導運動が指導運動として結実していくためには、これを進める側もまた、一種の自己否定をおこなわないわけにはいかない。まさに「到達点主義」こそ、本来の公文式の指導を人々に気づかせるものだった。あるいは、わかっていたが、できないでいたものを、ふたたび問題としてうきあがらせるものだった。そして、「Iライン運動」とはまさに「到達点主義」の指導をめざした現状改革運動だったのである。
《引用終り》

素晴らしい…。この理念は別にして、「Iライン」の事実上のもうひとつの意味があったことが書かれています。

「Iライン」はモラルラインであるから、教室の生徒全員が達成することを目標としなければなりません。「Iライン」を達成するということは、小六の終りまでにはI教材が終って三学年先以上の学習をするということです。

教室の生徒全員が三学年先以上の学習をしているような教室でなければならない。

《以下引用(p83)》
全員が三学年先以上の学習者であったときのことを想定してもらいたい。これにすぐに対応できる指導者はそう多くはない。わからない生徒がいたら、これにヒントをあたえて、学習できるようにする。こんなやり方では生徒全員が三学年先学習者の教室を指導できるわけがない。教室の指導はアシスタント、指導者は出入り口に立った門番のようにあいさつを交わしたり、はげましの言葉を与えたり、学習が終った生徒にはこの次も休まないで来てね、といった言葉かけだけでごまかそうとしてもダメである。そんなことが通じるはずがないのだ。寛氏が「Iライン」という目標を設定し、運動としてまで求めたのは、まさに生徒たちが「自学自習で高校教材を」学習する指導の改革、ひいては、教室自体の変革だった。

そうなのだ、この「Iライン運動」には、これまでの指導運動と一線を画する、公文式の将来の指導をさし示すに足る意義があった。
《引用終り》

こんな素晴らしい「Iライン運動」でしたが、結局は消滅していきました。「Iライン」とか「Iリーグ」自体が自己目的化してしまったようです。「途中の学習状態よりも、教材をさきに進めて「Iライン」到達を第一目標とする指導がひろがって、結局は指導のマニュアル化のひとり歩きが起こったのである。」(p87)

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