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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第三章 エックハルト」(p51〜69)を読みました。

神が私を造ったというよりは、私が神の原因を作った。」そんなニワトリと卵のような関係…そんな神について、エックハルトは語っています。

《以下引用(p54)》
エックハルトは被造物の原因としての神と神性について語る。それは神に二つあるというのではなく、神の二つの側面と理解すべきであろう。前者がすべての被造物に内在しつつ顕現した神(勿論、この神も時間と空間に触れたことは一度もないのだが)であるのに対して、後者はその本性からしていかなる概念規定をも超えた無窮の源泉であるが故に永遠に隠れた神である。顕現した神があらゆる被造物の形相を内に統合している有相の神(人格神)であるのに対して、隠れた神はあらゆるものに遍在し、何の区別もない無差別的な一として、すべての二元性が消滅する無(相)の神(非人格神)である。

顕現した神が絶えず働きたまうのに対して、隠れた神性の根底は、働くべき何もない非活動(無為)として、不動の静寂と沈黙のうちにある。両者の間には、活動と非活動という差異があっても本質的な区別はない。いずれも人間の理性をもっては窺い知ることができないが故に闇であり、理性で把握できるような神は神ではない。だからといって、それは神が存在しないということではない。むしろわれわれが一般に存在すると考えているものが非存在であり、神こそすべての存在を超えた存在なのだ。つまり、理性が終熄するところに闇があり、そこに神は輝いているのである。
《引用終わり》

」の後に悟りが訪れるのと関係があるかもしれません。

そして、人間にも二重構造が存在するようです。

《以下引用(p56)》
人間は二つの存在から成り立っている。一つは被造物としての偶然存在(外なる人)であり、もう一つはその内側にあって、かつて一度も時間と空間に触れたことがない本質存在(内なる人)である。それは更に涸れることのない神性の根源にまで繋がっている。本質存在からすれば人間は一度も生まれたことはなく、それゆえに死ぬこともない。かつて在ったし、今も在り、そして永遠に在り続けるであろう。一方、偶然存在からすれば、人間は時間的に生成したものとして、本来の自己ではない何者かになっている。それは時間的に生まれたが故に死すべきものであり、時間とともに滅びゆくものである。…

人間は、本質存在に目覚めない限り、本当の存在ではあり得ない。人間は影であり続ける。
《引用終わり》

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