ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9~132)の「公文公氏の最後のメッセージ、特別研究生」(p44~58)を読みました。(小林教室収蔵

「ソフィスト伝」について「公氏が神格化されることを防いだのではないか」と書きましたが、同じようなことを村田さんも書いてます。

《以下引用(p44)》
形骸化に気づかずにさらに屋上屋をかさねると、指導の基本は指導の原理となり、解釈が解釈をよび、聖典化の道をあゆむ。聖典となれば偶像化して、本来は生きて動く指導現場がその偶像にひざまずく。
《引用終わり》

人は、毎日の仕事をパターン化し、定式化し、マニュアル化したがります。その方が楽だからです。その都度、悩んだり考えたりしたくないからです。でも、その瞬間に指導は死んだものになるでしょう。

公氏の誤解を生じやすい言動は、それを防止するためのものだったようです。公文式が「教えない教育」として固まりつつあると気づくと、「教えて教えて教えぬく教育」と言い始めます。

《以下引用(p47)》
公文式は教えない教育ではない。わからないときは徹底して教える。教えて教えて教えぬく。しかし、子どもはしばらくすると、自分でできるから聞きに来なくなる。

この「しかし」という言葉の前後の文のあいだから、生徒の自学自習の存在が立ち現れる。このことを知らせなければならない。「教える」から「聞きに来なくなる」、この指導者と生徒とのあいだに「自分でできる」という学習がある。ここにかかわってこそ指導者は指導者の役目を果たすことになる。公文氏ははっきりと公文式の指導者に「指導の現場」がどこにあるのかを示したかったのである。…

(p48)生徒に自学自習をよみがえらせるには、指導者の個人別指導によらなければならない。指導が個人別になるわけだから、だれにでも通用するマニュアルはない。しかし、指導者はこれをほしがる。「指導の現場」に立ち、指導の転換を伝えるためには、指導者が立つ足もとをゆるがす逆説的な言葉をつかうしかなかったのである。
《引用終わり》

仏教の「空」のような、禅問答のような…

《以下引用(p51)》
ひとところにとどまることがない。しかも、実質のない権威主義はゆるさなかった。自分を棚に上げて責任を他に転嫁して意見具申する社員には容赦がなかった。…

公文式はどの教室でも同じサービスをすべきことを求めて乱暴な改革をしようとした役員もいたが、公文氏本人は固定的、形式的な考え方に生来、くみしない人である。…

(p52)公文式はサービスを売っているのではない。同じ材料、同じ調理法、同じ接客態度を維持してサービスにするファミレスのフランチャイズと同列にはならないのだ。ファミレスのサービスは本部が指示するマニュアル以外にはないが、公文式では教室が現場であり、そこで指導をする指導者から学ぶことによって本部は指導を確立している。だから、教室によって指導に上手下手の差が出るのは当然である。…

指導に差はあるのは当然ではないか。研修体制をととのえるのはいい。しかし、指導者を一定の指導に統一しようとするまちがいだし、できないことなのだ。気弱な経営者なら、リスク管理とか称して、全教室を金太郎アメのように、同じサービスにしようと考えるかもしれない。しかし、公文氏はそうは考えなかった。指導力に差があるから、学び合いが起こり、自己研鑽が始まるのだと考える。したがって、公文氏本人もまた、当代きっての優秀な指導者の話を聞きたいと、こうした指導者による講習会の開催をことあるごとに要求した。
《引用終わり》

これは生物が多様性によって発展してきたのに似ています。指導の統一とは、指導の優生学ですね。公文氏の勘の良さに敬服します。

ところが…

《つづく》