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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第三章 エックハルト」(p51〜69)を読みました。

これまで読んできた『瞑想の心理学』『自己認識への道』に関する記事で、引用してあるところをリストアップしてみました。

【瞑心51】一なるものを私は見ることができない。パウロは何も見ていなかったが、それは神であった。神は無であるが、また一なるものである。(エックハルト『無である神について』)

【自道14】「永遠なる父はわれわれが同じ神の子であることを教えようとしている」

【自道24】「ドアと蝶番」の比喩

【自道25】すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一である。原初の始めは最後の終りのためにある。生が一つの存在であるような生の明白な原因の内に連れ戻されない限り、生は決して完全なものとはならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)

【自道33】私は端的に神に、神は私にならなければならない。もっとはっきり言うならば、神は端的に私に、私は端的に神にならなければならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)

【自道35】「ほんの一瞬でも、完全に自らを捨て去る人には、すべてが与えられるであろう」(エックハルト)

以上、一番核心を突いたような言葉が多かったように思います。この章でエックハルトの名が初めて出る文章を引いておきます。

《以下引用(p52)》
被造物としての私は、エックハルト(1260〜1328)も言うように、無、否、無以下であるだろう。それ故になおさら私が私であることの真の可能性、即ち私が真理であるような真理は何処に求められるかを知ろうと努めてきた。が、私はどれだけこの真理を理解するまでになっているだろうか、心もとないのだ。空しく過ぎ去った時の如何に長く、残された生の如何に短いことか……私は身震いする。しかし尋ねてみよう人とてない孤独と沈黙の中で、私はその意義に対するかわらぬ尊敬を内に秘め、ここから一歩も離れようとは思わない。なぜならそのような真理は、外の世界(客観的事実)の何処かに求められるような性質のものではなく、むしろ饒舌と喧騒の世界を離れ、私の実存の最も深い孤独のしじまの中で明らかになってくると考えるからだ。そして今、何よりも私自身その真理から離れた故に彷徨う敗北と恥辱の歴史だと思っている。
《引用終わり》

こんな文章が自分も書けるようになりたいです。

《つづく》