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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9~132)の「教育の現場とは」(p10~43)を読みました。(小林教室収蔵

「学ぶ」ということに関して興味深い文章がありましたので、引いておきます。

《以下引用(p40)》
子どもに接するということは、そのまま子ども自身が所有する宇宙の存在を、指導する側もまた共有することである。これなくしては成り立たないのが、教育という場における「教えるものと学ぶもの」との関係性なのだ。権利や義務、自由や責任という言葉では割り切ることのできない世界でもある。一日一日が学ぶ側のみならず、指導する側にとっても、お互いの可能性が成り立つ場に立つことによって、その関係性に一種の超越をはかろうとする、日々の闘いの連続にならざるを得ない。
《引用終わり》

子どもの宇宙を共有する、という表現が好きです。もっとも、教育に限らず、子どもに限らず、人とコミュニケーションを取るということは大なり小なりそういうことかもしれませんが。

《以下引用(p40)》
くり返し諏訪氏の言葉をひくが、諏訪氏は次のように勉強のあり方について述べていたのである。「私たちは、覚悟を決めないと勉強に入っていくことはできません。勉強することは単に知識や学力を身につけることではなくて、私たちの頭脳や身体を知的に組みかえていくことです。勉強する子どもたちは、多かれ少なかれ「自分」に挑戦しているのです。どんな子どもでもそうです。「私」が居て知識を身につけていくのではなく、知識を身につけて「私」自体が変容していくのが勉強なのです」。これはまさに教育にたずさわる者への贈る言葉になっている。人を教育するにあたって、この言葉から逃げることはできない。
《引用終わり》

それまで知らなかったことを頭の中に入れるということは、異物を体内に入れることに似ているのかもしれません。免疫系も異物に出会うたびにその情報を取り込み、それまでの自分たちの構造を改変するのだそうです。それが「免疫ができる」ということ。

風邪をひいたことがきっかけで、膠原病のような自己免疫疾患にかかることもあるようです。それだけ抜本的な改変があるわけです。そして、学ぶということも同様のリスクが伴います。新しいことを学ぶことによって、それまでの自分の知識や考え方を徹底的に攻撃せざるを得ないような視点が芽生えることもあるでしょう。

一年生になれば自動的に一年生で習う内容が頭にスルスルと入っていくわけではないのです。新しい細菌やウイルス(例えが悪いが)に出会ったときのように、拒否反応等の苦しい状態が発生するわけです。そういうリスクを超越して、より強い自分に生まれ変わるために頑張るぞ!という覚悟がなければ、負けてしまうのです。

学習者とは、冒険家。そう言えば、冒険的学習という言葉が「ソフィスト伝」にも出てきました

《以下引用(p42)》
教育とは、学ぶことをとおして、みずからが変わるその過程全体を意味するものである。みずからが変わるわけだから、心も身体も変わる。新しい場所を得た子どもは、それまでには考えたことない位置からの風景に世界が変わる経験をもつ。さらに正確にいえば、いまだ知り得なかったことを学ぶとは、そもそも学習者の側に思考活動の新たな展開がなければ成り立ちようのないものなのだ。人はいつもつかいなれたフレームでしか世界を見ない。それでは新しい世界の出現はない。知れば知るほど、知らないことの多い事実に人はおどろく。これまで知らないこととは、存在しなかったもののことである。存在しないものを知ることはできない。だから、学ぶという行為は、つねに学習者の「命がけの跳躍」を求めるのだ。
《引用終わり》

指導者の務めは、この「命がけの跳躍」に挑む者たちの、不安や恐れを解消させて、勇気を失わせることなく、ケアすること。そして、その跳躍後に変貌を遂げた彼らの宇宙を再び共有し、共に歓喜し、さらなる跳躍へと導くこと。この跳躍の歓びを知り、どんどんと次の跳躍に自分から挑んでいく冒険家に育つまで…。

《つづく》