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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9~132)の「教育の現場とは」(p10~43)を読みました。(小林教室収蔵

前回の「我に返す」ということに関して、本を閉じていろいろと考えてしまいました。このくらいインパクトのある本しか読みたくないのですが、そういう意味では非常に眼鏡にかなった読みごたえのある本だと思います。そんなわけで、今回は「教育」からはちょっと離れます。

子どもが「我を忘れる」ことが割と頻繁にあるということでした。昔「癇癪を起こす」とか言ったのに近いでしょうか。「キレる」というのも似た状態なのかもしれません。

《以下引用(p20)》
「我を忘れた」状態が長くつづけばつづくほど、子どもの心はふつうではなくなって、「間が悪い」ことが起こりやすい。
《引用終わり》

これは子どもに限ったことだろうか?と思いました。「どうしてこんなことをしたのか自分でも分からない」ということは大人でもあるような気がします。カッカッとしていたり、ボーッとしていたり、そして平静ではしないようなことをやってしまっている時。法廷では「心神喪失状態」というのかもしれません。

この状態の間、「とんでもないこと」が起こる確率がグッと高まります。そこに「間が悪い」状態が重なると、「とんでもないこと」は確率という状態を越えて現実化してしまうのです。

佐世保の事件をこんなふうに一般化して考えて、人間とはそういうものであると捉えてしまうと、「我を忘れた」状態にならないように各自が気を付けるという努力は可能としても、「とんでもないこと」というのは完全に回避することはできないということになります。

人間とは、本来そういう悲しい存在…。

そして、起きてしまった場合には、その国や時代における慣習や法律によって責任等が決められ、当事者たちの間で「悲しみ」を配分し合うということが繰り返されてきました。その配分比率の裁定は、「慣習」とか「良識」において決める場合、「法律」に軸足を置いて刑事上から決める場合、「宗教」とか「哲学」とか形而上から決める場合等々、違ったものになるはずです。

今回いろいろ考える中で、「教育」という立場での捉え方も、他のいかなる立場からも独立して決しなければいけないと思いました。

そして各自にできることは、「我を忘れる」という「間」という魔がつけ込む隙をつくらない努力。そういう状態の人と出会っても自分との間に「悲しい現象」が生じないように配慮すること。

また、そういう状態に陥った子どもを見つけたら「我に返す」ことが教育者の務めであるし、大人に対してもそんなケアをしてあげられる余裕を持ちたいものだなと思いました。

《つづく》