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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第二章 アウグスチヌス」(p31〜50)を読みました。

最後に筆者は、アウグスチヌスの思索の甘いところを指摘しています。

《以下引用(p48)》
最後にアウグスチヌスの回心を遅らせた性愛の問題に少し触れておこう。現代では一笑にふされる問題と知りつつも、私はこれまで繰り返しこの問題に帰っていった。奇妙に聞こえるかも知れないが、宗教を考える場合、性愛の問題は極めて個人的な事柄でありながら人間が逢着する恐らく最後の秘義であるだろう。
《引用終り》

二元性の座標軸の中で、「男−女」の関係を最も重視していることは「自己認識への道」でも見たとおりです。

《以下引用(p49)》
さらに性愛の問題は結婚に結びついてくるが、これについても彼の考察は不充分に思われる。彼は、使徒の「結婚を禁じてはいないが、すべての人が私(パウロ)のようであること(独身生活)を望む」といった言葉以上に深めることはなかった。『告白』に比べ、その少し後に書かれた『結婚の善』などを読むと、恐ろしくつまらないのだ。結婚は宗教的には善でもなければ悪でもない。外なる人は動物的な身体として男性と女性という二つの性から成り立っている。この半端な欠けた人間が他者(異性)を求めることに何の不自然さもない。というよりも恥ずべき情欲を原罪の報い見なそうとも、人間の第二の本性となってしまった今、情欲は余りにも人間的な、余りにも自然なものであるが故に、それを疑わしいものと考える人は誰もいないという意味において自然なのである。外なる二つの性は、情欲に燃えるよりは結婚する方が倫理的にはよいのである。
《引用終り》

これは、死に関する混同(「肉体の死」と「大死」)と似ているように思います。

アウグスチヌスほどの方でも、「独身」という言葉については誤解していたらしい。

関係があるのかないのか(関係ないと思うが)、独身の人が多いです。結婚して哲学を始めるのも悪くないと思うのですが…。

《つづく》