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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第二章 アウグスチヌス」を読みました。

肉体から開放されること仮我を死なせて無自己を実現するということ、この大死をここでは「外なる人の死」と呼び、その体験が書いてあります。

《以下引用》
では肉体の死ではない外なる人の死は如何にして可能なのであろうか。その一つの方法が永遠なるものの観想(contemplatio)である。観想は何よりも外なる人を離れ、自己の内側を見てゆく内的行為であり、多のうちに虚しくなった分散の状態から一なる神へ帰還することである。初めそこは様々な感情、思考、記憶が漂う巣窟、気狂いじみた混沌であるだろう。さらに観想を続けていくとやがてイマージュの流れは止まり、何もない暗き闇、スペインの神秘思想家が「魂の暗夜」と呼んだ無の空間に遭遇する。…

私は闇の中に完全に身を委ね、自己を放棄したならば外なる人の死の彼方に、不死なるものが達成されることをとつおいつ思ってみるが、まだ外なる人である私は、意を決してその中に飛び込んだなら、私は死んでしまうであろう。…

肉体の死とこの死の間に見られる相違は、前者が避けることのできない自然の死であるのに対して、後者は個々の人間が自発的・意識的に通過する死であることだ。そして、人はこの神の闇の中に自ら進んで入っていくのでなければ、愛なる神に出会うことはない。人は神の光を知る前に神の闇を知るのである。このような観想は深い孤独の中で、いわば生きながら死を体験する危険に満ちた神の試みといえる。…これを避けて通ることは、情欲(性愛)と死によって滅びゆく神なき悲惨なさすらい人として無限に生と死を繰り返す闇の世界の動物であり続けることだ。…

ここでわれわれは観想者が神の闇の中へ飛躍したと仮定しよう。…

神の闇の中で観想者は、何かとてつもなく大きな未知なるものと融合し始める。そして外なる人(自意識)が落ちる無為の瞬間、忽然と闇の中から一条の光が燦然と輝き出す(agnosia)。闇はすべて消え、突如として観想者は光に包まれ、至高の歓喜(エクスタシー)の中で私はいない。私(自意識)がいたらそこに歓喜はない(愛の体験)。…

「魂の目のようなものによって私が見たものはどんな光とも異なる不変の光だったのです。その光によって、不変なるもの自体を知ったのです」。この照明体験とともに観想者の魂の闇は一瞬消え去り、精神のまなざし(内なる眼)でもって神の不可変的な形相の世界を観照しているもうひとりの内なる人に到達する。そこでは観照者は、いわば神を映す雲りない鏡となっていて、観るものと観られるものが霊的に分かちがたく一つに融合している。…

観照者は、神の非形態的な光に照らされ、至高の歓喜の中にあって、すべてのものが神となっているのを明らかに観る。観想は、神の一瞥を可能にするが、それは文字通り一瞥であって、彼がこの名状しがたい甘美にいつまでもひたっていることはできない。彼は再び現実の世界へと引き戻されるが、神によって与えられた霊の初穂は朽ちることなく日々新たにされてゆくのである。…

外なる人には終りがあるが、神を懐妊した内なる人には終りがないのだ。「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。
《引用終り》

神秘体験の実況という感じです。アウグスチヌスの『告白』を基にしているようです。抜粋してありますので、詳しくは本書を御覧下さい。

《つづく》