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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第一章 キルケゴール」を読みました。

これまで読んできた『瞑想の心理学』『自己認識への道』の両書は解説書という趣で、教科書のように順序立てて、丁寧に説明されていました。ところが、この章では、最後の結論として扱われていたようなことまでが初っ端からポンポンと出てきます。この本を最初に手にしていたら、かなり面喰ったのではないかと思われます。

この章は、キルケゴールが主語となる文が非常に少ないです。逆に「私」という一人称の文が多くみられます。ですからキルケゴールに関する小論・解説というよりは、キルケゴールをモチーフにしたエッセイのように捉えると良いかもしれません。

可藤さんの経歴を拝見しますと、コペンハーゲン大学キルケゴール研究所で学ばれています。キルケゴールに対する思い入れは、かなり強いものがあるのだろうと思われます。

この章は、前掲の二書の内容を凝縮しているようでもあり、それが一人称で綴られている点でも気に入った文がたくさんあります。これから何度も読み返してみたい箇所が多々あって、引用する個所も非常に迷うのですが、下の文章を引用しておきます。

《以下引用》
人間の尊厳(とうとさ)を説く人々がいかに的外れであるか、その無理解のためにかえって生命の尊厳は貶められ、人間は確実に生の意味を見失いつつあることに私はしばしば思いをはせた。彼らの教えるところから、生命はとてつもない誤解と錯覚の上に建てられた砂上の楼閣だと知るのにそれ程高貴な魂を必要としないであろう。そして私もまた、いわゆる生と呼ばれるものに何の意味も見い出せないでいることは、すでに繰り返し書いてもきたのであるが、その理由は投影された影のほか何も見えなくされた囚われ人に、真実など見ることができないということであった。ここに何の見誤りもないが、果たして生は何の意味も、目的もない偶然に過ぎないのであろうか。極めて逆説的な表現であるが、存在の意味を問わないところでのみ、この世の生は存続していけることをずっと以前から確信している私ではあるが、ここで生の意味は何処に求められるかを敢えて問うてみたい。他者はいざ知らず、私自身の生命の縁(よすが)としたいためである。
《引用終わり》

知ろうとすればするほど見い出せなくなるという、不確定性原理のような逆説的構造の上にこの世は成り立っているようです。

《つづく》