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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「3、自信と余裕がない(1988〜1993)」の「5 学年を越えても自習で進む突破口」を読みました。(小林教室収蔵

「自信がつき余裕ができ、高校進学後学校で特別できるようになる」。そのためには「学年を大きく越えて進むことを可能にする突破口」が必要である。高校で余裕をもった生活をおくり、特別にできるようにするための学習において、その過程では、多くの困難がある。そうした困難にぶつかったときに突破口となる力をつけておく必要がある。

《以下引用》
…外国語の教育は、どうか。高校で必要になる英語力の基礎として、公があげたのは、「英文解釈力」である。
《引用終わり》

学校で英語を習っても海外旅行で全く役に立たない、海外からの旅行者に道を教えようとしても会話が成立しない、等々の事例から、英語教育は見直され、会話重視に変わっていきました。そこから考えれば、公文式は時代に逆行しているのか?いえいえ、高校進学後を見据えているのです。

《以下引用》
高校生は、どこで英語に困っているか、である。もちろん、RやLの発音の問題でもないし、ましてや日常会話の決まり文句の習得でもない。高校でのテキストの数行を辞書片手に30分以上かける高校生のことを、少しでも思うなら、高校生がほんとうに必要としている英語力が何かがわかるはず。高校での英語の基礎力とは、高校レベルの英文が解釈できること。少なくとも教科書の英文がすばやくラクに読み取れなければ、そのほかの英語の学習、たとえば、コンポジションにしても、英語表現力にしても、大きなロスがともなってしまう。
《引用終わり》

公文式には「何を教えないか」というスタンスがあるということを以前書きました。このスタンスで考えるなら、日常会話は確かに真っ先に省かれるべきものだと思います。小・中学校でそれを重視していくのであれば、なおのこと公文式でやる必要はない。

《以下引用》
…英語教育独自のむずかしい点は、もう少し別のところにある。母国語教育では前提になる経験世界が、外国語の学習では本質的に欠如している。したがって、外国語教育にあっては、学習するにつれて、学習者のなかに外国語が生きる経験世界をじょじょにでも構築できるものにしなくてはならない。公のいう英文解釈力とは、もちろん、その学習のために前提となる英文解釈力なのだ。これが欠けていたのでは、他のどんな英語の学習であっても、経験世界への広がりは望めない。
《引用終わり》

確かに、この力が無ければ、海外に住まない限り英語は上達しないかもしれません。そして、次の指摘は逆説的で興味深いです。

《以下引用》
…英文を経験世界のなかで理解でき、運用できることと、シテュエーションのなかでの英語のつかい方に慣れることは同じではない。むしろ、学習の狙いは真反対である。英文解釈力とは、その英文がどんな人と人との関係のもとで発せられ、どんな場面を構成しているのかをイメージする力のことである。英文からイメージをつむぎ出す、これが公のいう英文解釈力の真の意味であり、こうした力があるから、これに端を発する他のさまざまな英語の領域の学習が成り立っていくのだ。
《引用終わり》

英文解釈力を養わない限り、英語学習はすぐに壁にぶつかってしまう…ということになりそうです。

《つづく》